車がイルカ宅に着いた時、オレの不安は競馬同様おおむね的中していた。
 やはりほんの少しだが、運賃が足らなかったのだ。イルカは車から飛び出すと、慌てて家から不足分の小銭を持ってきて、すみませんと何度も頭を下げながら運転手に渡した。

「無計画にこんなに買い物をするからだ」
 車が去ると、オレは残された山のような荷物を見下ろして言った。特にかさばってしまっているオレ用の寝具や服や靴などは、別に無くても何とでもなるものではないか。
「あはっ、今の俺には余分なお金はない方がいいっていう事なのかもね」
「ふっ…負け惜しみか?」
 ついからかうような口調になる。
「違うよ〜、今何でも買えるようないい暮らしが出来ちゃうとさ、試験頑張ろうっていう気持ちが薄れるかもしれないだろ? あ、でも俺ね、最初はお金目的で試験受けようと思ってたんだけど、今は少し違ってきてる。今はさ、純粋に試験に受かりたいんだ。受かってカカシに少しでも認めて貰いたい」
「…………」
「? カカシ…?」
「ぁ…、いや、何でもない。いいだろう…好きにすれば」
 オレは慌てて屈み、がさがさと両手一杯に荷物を抱えた。

 イルカが「荷物運ぶ影分身見たいな〜」などと調子のいい事を言うのを、オレはすげなく断った。
 背後で奴が「つまんないの」とむくれているが、全く取り合わないまま荷を持って階段を上り出す。
 確かに二人だけでの沢山の荷物運びは少々面倒だ。
 だが今はなぜか、オレという男はこの世界に一人だけにしておきたいような気がしたのだった。





「ただいまぁっ! ね、ね、聞いてよ、ねっ」
 イルカが家に駆け込んでくるなり、鞄と食材の入っているらしいビニール袋を放り投げるようにして駆け寄ってきた。
「なんだ」
 その騒々しさに大袈裟に眉を顰めてみせる。一時期は全く読む気にならなかったが、最近割と読めるようになってきている愛読書をパタンと閉じた。
 シャツの首元のボタンを外し、ネクタイを肩に乗せた格好で、イルカははぁはぁと荒い息をしている。だが口の形が明らかに笑っていた。
「あのさ、今日急に講師の欠員が出てさ、俺臨時でキッズスクールの方に派遣されてたんだ」
「きっずすくーる?」
「そう、パソコン教室の子供版。生徒はみんな木ノ葉丸くらいの子供達なんだけどさ」
「あぁ」
「もうそれがすーっごく面白くて! みんな好奇心一杯でキラキラしてるんだ。でさ、俺なんか思いもよらない面白いことを、次々やったり聞いてきたりするんだよ! それに何て答えようかって考えるだけで、すごくワクワクしてさ!俺子供達に教えるのがこんなに楽しいって全然知らなくて、何だかメチャクチャやり甲斐感じた!」
「成る程」
 その言葉には自分も少なからず共感できる部分があった。初めて三人の子供達を弟子として迎えた際、ふとした瞬間に似たような事を感じることがあったのだ。イルカはオレの返事に我が意を得たりといった様子で、ますます勢いに乗って話しかけてくる。
「それでさ、今受けようとしている二級より更に一つ上の、一級って試験に合格すると、会社から看板借りて独立開業して、子供向けのパソコン教室開くことも出来るんだって!」
「独立…開業? …お前がか?」
「うん、したい! 今すぐは資格も資金もないから無理でも、いつかきっとやりたい! 冗談でも気紛れでもなくて、運命感じたっていうか、天職かもって思ったんだ!」
「ふっ…そうか」
 自然と口元に笑みが浮かんでしまう。この男の行動は簡単に予測出来るようでいて、時に案外意表を衝いてくる。
「イルカ」
「ん、なになにっ?」
「多分、天職なんてものはないぞ」
「――ぇ?」
「皆、たゆまぬ努力の果てに天職にしていくんだ。最初から天職なんてものがどこかに用意されてるわけじゃない」
「ぁ…? ……あぁそっか! そうだね! うはぁ、こりゃマジで試験頑張らなくちゃだなぁ〜!」
「そういうことだ」

 その日の夕食は超大盛りのカツ丼だった。
 やはり基本的にはとても分かりやすい男の行動に、オレは何とか食欲で応えた。


 だが「実技はまだいいとしても、問題は筆記の方だよな」という彼の試験勉強は、現実にはあまり進んでいないようだった。
 イルカは大抵暗くなってから帰ってくる。相変わらず危なっかしい手付きで夕食を作り、今日一日の出来事を食べながら話す。食器は成り行きからオレが片づける事にしているが、その間にイルカが風呂から上がって一息つくと、もう既に夜半が近い。
 そこからいよいよ試験勉強を始めるわけだが、昼間の仕事でかなり疲れてしまうらしく、なかなか思ったように集中できないでいることが多い。
 こちらもぱそこんに向かって船を漕いでいるイルカに気付くとすぐに声を掛けるが、幾らもしないうちにまた意識を飛ばしている。
 しかも声を掛ける度にイルカがごしごしと目を擦ったり、顔をぱちんと叩いたり、ぶんぶん頭を振ったりしているのを見ると、全く関係ないはずのこちらがまでが落ち着かなかった。
 最初にこの男に口寄せされた時、何の躊躇もなく痛みを増幅させる修行用の軟膏を塗らせ、わざと精神を疲弊させた事が嘘のようだ。
 決して甘やかしてはいけない、絶対にこの男の為にならないと分かっているのに、その裏側ではついつい「眠らせてやりたい」などと思ってしまう。
 オレはいつからこんなに不甲斐なくなったんだろう。弟子達にはあんなに厳しく指導できていたのに。
 この次元に来てからというもの、自分でも知らぬ間に腑抜けになってきていると感じ、内心焦る。
(上忍師失格だな…)
 要するにオレは、この世界では『ただの人』でしかないらしい。




 効果的な解決の糸口も見つからぬまま、そんな日々を繰り返しているうち、ついに試験の前夜になってしまった。
「――まだ、寝ないのか?」
 本から目を離し、机にかじり付いている男に声を掛ける。まさか徹夜する気だろうか。
「うん、もうちょっと。俺昔から一夜漬けとか山を当てるのって苦手なんだけど、でも全くやらないよりはね」
「…そう、か」
 如何にも要領の悪そうな彼らしい返事に、正直何と声を掛けていいか分からない。
『今根を詰めて睡眠不足になるよりは、早く寝た方が…』という言葉も、真剣そのものの横顔の前に上手く切り出せなかった。
「あ、でもカカシは先に寝て…」
「いいから集中しろ!」
「はいッ!」
 あぁくそっ、早く寝させたかったのに、イルカが余計なことを言うから全く逆のことを言ってしまったではないか。
 熾烈を極める中忍試験の時でも、自分はもっと冷静にどんと構えていられたはずだ。そもそもこの次元では試験に落ちたからと言って、命がどうこうなんていう世界でもないのだ。なのに妙にじりじりとして落ち着かないのは何故だろう。
 真新しい寝具セットに座って愛読書を開くものの、視線は活字の上を上滑りしているだけで、話が全く頭に入ってこない。
 数時間後にイルカがようやくベッドに横になるまで、オレは悶々とした時間を過ごした。






「――じゃ、試験は3時間くらいだからさ、2時までには戻ってくるよ。昼ご飯何か買ってくるけど、何が食べたい?」
 玄関で靴を履きながら、イルカが振り返った。
 その目元には、連日の睡眠不足から薄く隈が出来ている。いつもは白黒くっきりとしているはずの瞳が、赤く充血していた。
「余計なことは考えなくていい。今は試験のことだけ考えろ」
 試験の日の朝くらいは「頑張れよ」と一言言おうと思っていたのに、ついキツイことを言ってしまう。
 更に今の一言で余計に緊張してしまい、どこか地に足が着いていないような様子のイルカを見ていると胸が騒いだ。
(――何だか…嫌な予感がする…)
 こっちの次元に来てからというもの、鼻は利かなくなったし腑抜けにもなった。だが、勘だけは以前と変わらずよく当たっている。正直、この胸騒ぎから少しでも逃れたかった。
(ままよ、腑抜けついでだ)
 もしほんの少しでも可能性があるなら、試してみたい事があった。

「イルカ」
「え、なに? あ、サンマ? んーでもサンマはどうかなぁー。ナスなら多分安くていいのが買えると思うけど?」
「違う、そうじゃない。……これを、飲んでいけ」
 渡そうかどうしようかとさっきからずっと握りしめていた、黒い小さな丸薬を半粒差し出す。とみるみるイルカの瞳が大きく見開かれた。
「え? エ?! ウソっ、これってもしかして…兵糧丸?!」
「あぁ」
「うわ、わ、飲んでいいの? こないだはこれの半分くらいだったのに、すんごいパワー出ちゃった、あれだよね?」
「試験中、どこかに走って行くなよ」
「うわ、やったーっ!!」
 コップに水を入れて渡してやると、イルカは凄い勢いで薬と共に飲み干した。
「ぷはぁーーっ! あぁこれで完璧だ! んんんなんかもう力が出てきたぞ〜。じゃあ行ってきまぁす!!」
 錆の浮いた古い鉄階段を一つ飛ばしで駆け下り、駅へと走っていく。
(――完璧…か…)
 その後ろ姿を、オレは黙って見送った。










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