(ったく…妄想の賜って……どういう意味だよ…)
 講師の控え室で一人コンビニ弁当をつつきながら、今朝がたの会話をつらつらと思い出す。薬師さんら先輩講師達は、皆近くのレストランに食べに出ていていない。
 授業中も、彼が言った言葉の破片がぐるぐると頭の中を巡っていた。
(薬師さんも薬師さんだよ。あんな言い方、ちょっとないんじゃ…)
 ある程度話を合わせてくれてはいたが、冷静になってよくよく思い返してみると、俺の話をはなから信じてない感じの言葉ばかりだった。物腰はいつも通り柔らかかったものの、それだけにかえって言葉の鋭さが胸に残った感じがする。
(もしかして…世の中の人はみんな、カカシに対してあんな態度なんだろうか)
 カカシの事を話したのは薬師さんが初めてだから、まだよく分からない。けれど、確かに「漫画の中の人と暮らしてます」っていきなり言われたら…?
(やっぱ…すぐには信じられないか、普通?)
 自分は信じるも何も、(きっとこの広い世界のどこかに一人くらいは居るだろう)なんて思っていた所にその本人が来たから、疑ってる暇なんて無かった。はたけカカシは自分にとっては、最初から紛れもない現実だったのだ。
(でももしかしたら、俺以外の人には恐ろしく非現実的な、それこそ妄想の類としか思えない事…なのか?)
 あのオタクの薬師さんからしてそうなのだ。恐らく自分以外の人は皆、はたけカカシの存在が信じられない。――そんな気がした。
(そりゃまぁ、話を聞いただけじゃそうかもしんないけどさ〜…)
 でも二人で街に出掛けたとき、周囲の人々はちゃんとカカシの存在を認識していた。それは彼の姿が、自分だけじゃなく他の人達の目にも見えていたからに他ならない。それこそ彼が嘘でも幻でもない、ちゃんと実態の伴った確かな存在であることの証明だろ?
(…あれ? でもまさかその光景さえも、俺が『そういう風に空想して感じていただけ』なんてことは…?)
 言ってみれば『セルフ幻術』状態っていうか?
(そんな…あり得ないだろ…ハハハ…)
 まぁ確かにあの頃、俺は貧乏で何をしても中途半端で、正直現実の世界に行き詰まっていた。だけど、そんな妄想を生み出すほどにまで切羽詰まっていた訳じゃない。
(…と、思う…けど……)
 そう思ったところで、午後の講義の始まりの予鈴が鳴った。慌てて残りの弁当をかき込み、お茶で流し込む。
(まったくもう〜、カカシのこと、誰にも打ち明けなきゃ良かったよ…)
 そしたらこんなモヤモヤを感じることも無かったのに。
 今日は、一刻も早く家に帰るぞと思った。





「――…ただいま…?」
 今朝カカシはずっと家にいると言っていたのに、帰ると何故か部屋に電気がついていなかった。居るかどうか分からないまま、暗い部屋の奥に向かって小さく声を掛ける。勿論彼なら俺の気配なんて階段上がるずっと前からだって気付いているのだろうけど、それでも寝ていたら悪いから。
 だがどうしたことだろう。電気を付けた室内はもぬけの殻で、朝から続いている雨音以外は、しんと静まりかえっていた。
 たった六畳一間の狭い家だ。台所のスペースを入れたとしても八畳そこそこ。他に探すところと言えば、風呂とトイレしかない。
(カカシどこ行ったのかな。今朝は出掛けないって言ってたのに)
 風呂の戸を閉めながら考える。でも勘のいい彼の事だ。
(俺が携帯で写真を撮ろうとしてることを察知して、いち早く隠れてしまったとか…?)
 でもすぐに(そんなバカな)と打ち消す。と、テレビの前のガラステーブルの上にあるものに、ふと目が留まった。
(あれ…カカシ、食べ残してる…)
 珍しいこともあるものだ。テーブルの上には、彼が自ら作ったらしい、簡単な食事が並んでいた。雰囲気からして昼食といった感じだが、それらが半分ほど手を付けた所で、そのまま片づけられずに残っている。
(へへへー、食べちゃおっと!)
 いつからかカカシは朝食係をやってくれていたから、ある程度料理が出来ることは知っていた。でも冷蔵庫の残り物ばかりでこんなちゃんとした料理も出来たんだなぁと感心する。
 レンジで温めて食べると、もうすっかり冷え切っているのにどれもなかなか美味しかった。
(凄いな、やっぱ上忍だよなぁ)
 そして、ちょっとでも彼の存在を疑ったりして悪かったなと思う。
 だって、この味や食感までが自分の妄想であるはずがないから。



(それにしてもカカシ、どこまで行っちゃったんだろ〜…?)
 上忍の作った昼食を自分の夕食にした俺は、買ってきた食材で彼のための夕食を作った。だが最初のうちこそちょっといい感じのトレードに満足していたものの、流石に料理をし終えても、風呂から上がってもまだ彼が帰ってこないことに、だんだん心配になってきていた。
(こんなに帰りが遅いことって、無かったよな…?)
 食事も途中で出ていくなんて、よっぽど急いでる事でもあったんだろうか? それともただ単に腹が一杯だったのかな?
(でも、今までカカシが後片づけをしないで出て行った事なんて、一度もなかったよな…?)
 いつもの彼はまさに「立つ鳥跡を濁さず」って感じなのだ。俺が先に帰ってきても、カカシがこの部屋で何をしていたかなんて、まるで分からない。その「姿なき姿」は、まさに一流の忍者だなーと、いつも感心していた。俺だったらそれこそ跡だらけだから、カカシにかかったら一日の行動なんて一から十まで全部分かってしまうことだろう。

(――しっかしどうしちゃったんだろうな…)
 こんな雨の中、無理に出掛けてどこかで怪我とかしてないといいんだけど…。
 ベッドに座ったまま、ぼんやりとテーブルを見つめる。
 カカシが居ないとすることがなかった。テレビだって二人で見ないとつまんない気がする。かといって久し振りにネサフをしようとか、先に寝ようかという気分にもなれなかった。
(――まったくもー)
 溜息をつきながら皿の並んだテーブルを見ていると、ふとカカシの箸に目が留まった。競馬で勝ったあの日、カカシのためにと買ったものだが、漆塗りで結構重みのあるいいヤツだ。ちょっとした所作が時にハッとするほど端正で、食事の前でもきちんと手を合わせたりする上忍には、やっぱり塗りの剥げまくった安物なんかより、作りのいいきれいな箸がよく似合っていた。
 そう言えば、さっきその箸がテーブルから随分と離れた所に落ちていた。拾い上げた時は(出掛けに足でも触れて落ちたんだろう)くらいに思っていたが、よくよく考えてみると自分ならまだしも、彼に限って果たしてそんなことが有り得るだろうか?
(……ぇ…?)
 さっき自分が思い浮かべ、もうとっくに消え去ったはずの言葉が、なぜかまた再び脳裏に浮かんでくる。

(――…立つ、鳥…?)

 いきなり、本当にいきなり嫌な考えが脳裏を過ぎった。
 その考えには、胸が悪くなりそうな程の大量の不安が混じっている。でもその不安を一気に払拭出来るだけの確固たる答えがどこにも見あたらない。
(…まさか、……まさかカカシ…?!)
 
 ――元の次元に……戻った…?――






「……えぇ、はい。…何とか大丈夫…ですんで。…すみません、宜しくお願いします…」

 先方が電話を切った音がして、俺は力なく受話器を置いた。
 今、海野イルカの欠勤二日目が了承されたところだ。
 勿論頭の隅には(これはズル休みだ。許されない行為だぞ)という認識と、重い罪悪感がある。
 でも、何かが自分の中から気力や体力を根こそぎ持ち去ってしまったかのようで、ベッドから一歩も動けないでいた。

 はたけカカシが、突然いなくなった。
 待てど暮らせど、一向に戻ってくる気配はない。初日の夜は一晩中寝ずに待ち続けたのに、聞こえてくるのは薄いトタン屋根を叩く雨音だけだった。二日目の朝には近所に探しにも出たし、どこかに行き先を示すメモ書きでも残されてないかと家中を探し回ったりもしたが、全ては徒労に終わっていた。カカシは本当にある日突然、俺の家から姿を消してしまった。
 その余りといえば余りな唐突さは、自分がカカシを呼んでしまったあの夜と、全く同質のもののような気もする。

「?!」
 突然、マナーモードにしてあった携帯が、ベッドサイドで震えだしてビクリとする。
 見ると薬師さんからのメールだった。実は昨日休むと会社に電話をした直後にも、彼からメールがあった。
 そこには
『 大丈夫かな? まだそこにカカシはいる? 』とだけあった。
 理由は分からない。分からないけど、何だかその短いメールにずしりと重い枷でも填められたような気がした。
 そんな理由から、今送られてきたメールも開けようかどうしようかと暫く悩む。
(でももしかしたら「手が足りないから午後からでも来て欲しい」とかいう内容だったら困るしな…)
 思い切ってメールを開いた。

『 もしかして、素に戻った? 』

 その一行文を見るや否や、俺はスパンと携帯を閉じて畳の上にぶん投げた。シルバーメタリックの筐体は畳の上を滑り、狭い部屋を横切って、玄関にあるカカシの靴に当たって止まる。
「……く…っ……」
 心の中で整理できないまま放置されていた色んな感情が、メチャメチャに逆巻きだしていた。苦しくて切なくて到底言葉になどならない。ただひたすらベッドの上に伏して、それらに耐えるしかなかった。


 初日には気付かなかったが、カカシの靴は二足とも残っていた。彼が最初から履いていた黒いのと、俺が半ば無理矢理試着させて決めた、白いスニーカー。
 俺が最初に貸していた古い靴も、皆残っている。
 その状況を付き合わせて考えると、彼は昼食を作って食べている途中、来たときと同様何の前触れもなくこの場から消えたと考えられた。
(いや、消えさせられた、のかもな…)
 その原因に、漠然とだが心当たりがあった。
(…俺、…か…)
 何の根拠もないけれど、何故かかなりの確証をもってそう思った。
 俺は薬師さんに言われた言葉に動揺してしまい、それまで固く信じて疑う事などなかったカカシの存在を、会社で昼食を食べながら初めて疑ってしまっていた。そして恐らくその頃、カカシもこの場所で昼食を食べていた。

 忍でもない俺が、解印の切り方など知るはずもない。
 けれど、カカシの存在を一瞬でも疑ったあの時の心が、自分と彼を結んでいたものをぷつりと断ち切り、解いてしまった。
 そんな気がしてならない。











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