(――また、降ってきたのか…)
 薬師さんからのメールを受け取ってから暫くのち。
 薄いトタン屋根を不規則に叩く音が響きだし、ベッドに伏していた唇から短い溜息が出る。

 雨の日、カカシは家で静かに過ごすのが好きらしかった。
 晴れた日は都内の施設をあちこち回ったり、時には競馬場でお小遣い稼ぎをしたりもしていたらしいが、雨になると途端に買ってきた本を手に日がな過ごしていた。
 ただどれもカバーがかかっていてタイトルが分からない。いつだったか興味が沸いて、何を読んでるのと訊ねてみたことがあった。しかし返ってきたのはごく素っ気ない「色々」という一言だけ。どうやら内容を話す気は無いらしい。
「あ〜、分かった。もしかしてエッチなヤツ? だから内容言えないんだ?」と冷やかしてみたのだが。
「なに、そういうの読みたいの? 読みたいならそう言えば〜」と涼しい声で反撃されてしまった。
(くっ、くっそ〜)
 だから俺はそれ以来変な意地を張ってしまい、本の事には触れないようにしていた。
 とはいうものの、カカシが黙って本を読んでいる姿を見るのはとても好きだった。彼はとにかく男前だし、動作も無駄がなくてきれいだから、何をしていても絵になっているのだ。
 それに今思えば、この世界の、自分の暮らすこの場所が、あのヒーローの落ち着ける空間になっている事も嬉しかった。
 そして、その隣で一緒にいられることも…。


(何…読んでたんだろ…)
 掃除の時だって一度も触る事の無かった平積みになっている本を、少し逡巡したもののそっと手に取って広げた。
 一番上は、日本の古い街道や宿場、それに城下町を歩くためのガイドブックだった。写真がとても渋くて格好良く、思わず見とれてしまう。
(行きたかったのかな…)
 続いて置いてあったのは、江戸時代の忍の半生を描いた長編歴史小説。これは多分有名なやつだ。俺もタイトルだけは知っているから。
 次に目に付いたのは、何故か速記解説書とギャンブルの指南書、それに恐ろしい厚さの六法全書だった。何だか凄い取り合わせに眉が寄る。しかもどの本のどのページを読んでも、どれも殆ど意味が分からない。
 かと思えばカワイイ世界の犬の写真集や、きれいな写真付きの星座や雲の解説本に思わず微笑む。
(ん、こういうの、俺も好きかも…)

 けれど続いた『孤児の生まれる背景と現状』、そして『第二次世界大戦の記録』というタイトルに、いきなり胸を衝かれた。
(カカシ…これらの本読んで、どう思ったのかな…)
 会いたい。今すぐ会って話がしたい。例えカカシが恐ろしく難かしいことを延々語ったとしても、片端から質問攻めにして全部理解出来るよう、精一杯努力するから。
(だから…、だから神様、どうかお願いします…。彼に…会わせて…)

 カカシにどんな本を読んでいるのかと聞いたあの時。
 彼が「色々」と応えたのは、誤魔化しでもなんでもなく、本当のことだったのだ。そしてその幅広い選択肢は、間違いなくこの世界や、そこで暮らす俺という人間を理解するためのものだった。
「――カカ…シ……」
 熱いものが頬を流れ、はらはらと本の上に落ちていく。
 彼は突然生活環境が激変したにもかかわらず、俺や俺の住む世界のことを、こんなにも前向きに分かろうと日々努力していた。
 なのに俺は、彼のことをどれだけ知ろうとしただろうか? ただ格好いいと憧れるばかりで、彼の内面に触れるような深い話などしたことが無かった。ずっと一緒に居たいから早く認められたいと熱望していたくせに、彼を認める努力には欠けていた。
 認めることと認められることは表裏一体なのに。きっとどちらかが欠けても上手く成り立たないのに。
(――今頃、気付くなんて…)
 カカシの里心を刺激するのが怖くて、表面的な付き合いしかしていなかった事を今更のように悔やむ。きっとそんな付き合いしかしてなかったから、罰が当たったのだ。
 でもカカシが生まれ育った元の次元に戻ったのなら、素直に喜ぶべきだ。向こうには優秀な彼のことを必要としている人が大勢いる。いつまでもこちらの世界に居たのでは、彼だって忍としての拠り所を見いだせずに辛いだけだ。
(そうだ、何もかもこれで終わったんだ。最後には元の収まるべきところに収まったのだから良かったじゃないか)
 そう思うのに、嗚咽はなかなか止んでくれなかった。




 泣き疲れた体の脇を、時間だけが無意味に通り過ぎていく。
(――試験か…)
 もうどうでもいいかな。
 何の未練もなくそう思うようになっていた。受かってようが落ちてようがどっちだっていい。最早自分の目には酷く色褪せ、何の意味もないものにしか映っていないのだから。
 そう言えばカカシの作った昼食を食べて以来、この二日間何も口にしていない。冷蔵庫にも戸棚にも、すぐ食べられそうなものは何もなかった。だが、食べたいという食欲も、食べなくてはという気力もまるで沸いてこないのをいいことに、息だけをして過ごしていた。
 ただ人間四半世紀も生きていると、時に面倒な現象も起こってくる。長年の食習慣が「一日一回くらいは食事」という惰性に形を変え、じわりと現れてきていた。心にぽっかりと大穴が空いて動けないでいる俺を、目に見えない下らない力がだらだらじりじり動かそうとしてくる。
 鬱陶しいそれらに抗う気力さえ無い抜け殻の俺は、財布だけをほぼ無意識のうちに尻ポケットに入れて、靴の踵を踏んだままのっそりと外に出た。

 カカシを待ち続けてまんじりともせずに過ごした夜は、一晩中雨が降り続けていた。なのに翌日の今日には地面はさらりと乾き、高く昇っていたらしい陽はすっかり住宅街の向こうに落ちていて、もうその濡れた痕跡はどこにも見当たらない。
 時は流れている。
 それだけは分かった。

 財布を持って外に出たからといって、別に行き先が決まっていた訳ではない。でもこれも例の惰性ってヤツが、まるで方角を見失ってしまっている俺を、いつものコンビニまで運んでいった。
 ここ最近は全く食べていなかったけれど、それまでは長年食べ慣れていた弁当を一つ買い、ずしりと重い体と踏みつけた靴を引き摺るようにして再び外に出る。
 帰り道もまた惰性だった。
 だが二階に上がる鉄階段を上がろうとした時、錆びた手摺りに一羽の小鳥が留まっているのが見えて足が止まる。
「…………」
 いつもならそのまま勢いよく上って飛び立たせてしまうのに、今日はそれが出来なかった。
 今、自分の気持ちをあの人に伝えてくれるのは、こんな小さな命だったりしないだろうか?
 自分は以前、高速通信用のモデムの営業をやっていた。世界を繋ぐ広域ネットワーク構築の知識だって、人並み以上にある。なのに一番肝心な時に限ってその知識はおろか、携帯もパソコンも何の役にも立たないなんて、何て皮肉だろう。
 小鳥が飛び立って薄紅色の空に消え去るまでのほんの一時、俺は階段下でその小さなシルエットを見つめ続けた。



 翌日、自分を奮い立たせて出勤した俺は、自分の代役を務めてくれた人達にお詫びの挨拶をして回った。
 その中には薬師さんも居た。正直今一番会いたくない人だったが挨拶をしないのは失礼だし、何より逃げたり誤魔化したりしたくなかった。だから、向こうから声を掛けられる前に自分から会いに行った。
「あれ、海野君、もういいんだ」
 声を掛けると、いつもと何ら変わらない、柔らかな物腰で聞かれる。
「はい、お陰様で。急に2コマも担当して頂いてありがとうございました」
「そんなのは全然構わないけど、あんな事言い出した後だったからさ、なんかマズイことになってるんじゃないかって、心配しちゃったよ」
「…すみません」
 薬師さんの言う「マズイこと」っていうのがどういう意味なのかよく分からないけど、敢えて聞かないことにする。
「で、そっちの方はどうなったの?」
「…そっち?」
「やだなぁ、海野君。あんなに力説しておいて忘れたとは言わせないよ。カカシの写真。撮ってきてくれた?」
「……そっ…それは…」
 もっときっぱり言おうと思っていたのに、彼のどこか後ろ手に人を絡め取るような物言いにペースを乱され、思わず俯いてしまう。
「あれ、ホントにいなくなっちゃったの?」
「…すみません…期待させるようなこと言っちゃって。――あのっ、でも授業の方は早くレベル上げてくようにしますんで、これからも宜しくお願いします!」
「なぁんだ、つまらないなぁ。もうちょっと楽しませてくれるかと思ってたのに」
「…………」
 薬師さんのにっこりと優しく笑っているはずの笑顔が、何だかとても怖く見えた。


 でも一通り挨拶を終えて授業が始まると、少しずつではあるけれど次第にいつもの自分へと戻っていくのを感じる。
(やっぱり自分は一人で家に閉じこもっているより、こうして色んな人と接している方がいいんだ)と自然と思えた。
 帰り際、馴染みの生徒さん達に「やっぱり海野先生の授業が一番分かりやすいし、楽しいです」と言われた時には、底の方で何かに足を取られて動けなかった体が、ふっとすくい上げられたように感じた。
 そうは言うものの、家に帰っても誰かが居るわけではない。もしかして、ひょっとしてと、小さく小さく期待して膨らみかけていた心は、ドアを開けた直後には毎回萎んでいく。ただ、カカシのためにと買い求め、残された品々を見ても、不思議と前ほどは辛くなかった。
(俺も…少しは成長したのかなぁ)
 改めて自分は随分とヤケになっていたんだなと思う。
 あの上忍ならきっとこう言うだろう。
『馬鹿者。お前はこの試験を何のために受けたんだ? 誰のためなんだ? よく考えてみろ』と。
(そうだ、試験は他でもない自分自身のために受けたんだ)
 今の仕事を、天職にしていくために。
 それに彼は、そう決めた俺を色んな方法でもって支えてくれていた。なのにすっかり捨て鉢になって(もう試験なんてどうでもいい)などと思ってしまっていたことが恥ずかしかった。




 時間は止まることなく尚も流れていく。
 あれから二度ほど一人の週末を過ごした。最初の週末はかなりしんどかったけれど、思い切ってカカシのものを全て片づけ、室内を彼に会う前の状態に戻したら、寂しいなりにも少し心が軽くなった気がした。
 
 やがてカカシが居なくなってから、三度目の週末が訪れようとしていた。
 作りすぎてしまう事も無くなり、見た目も味付けも栄養のバランスもそれなりに整うようになってきた夕食を食べ終えると、満腹感以外にもちょっとした充実感が味わえていることに気付く。
 さして興味もない番組を渡り歩き、いつまでもテレビを見続けてしまう事は無くなっていた。そういえば度々ハマッて明け方までやっていたネサフも、最近はご無沙汰だ。
 流しに洗い物を溜め置かずにすぐに片づけると、ここ何年もシャワーだけで済ましていた湯船にたっぷりと湯を張り、ゆっくりと浸かる。そうやって風呂から上がる頃には、また不思議な充足感が宿っているのだ。
 一息つくと机に向かい、一級のテキストに向かう。以前なら文字を追いだしただけですぐに眠くなってしまっていたが、今では割と集中力が持続するようになってきている。
 ちょっと疲れたなと思った時は、うーんと背伸びをしながら窓辺に置いた鉢植えを見たりする。こいつは先週会社帰りに見付けた、ウッキー君そっくりのやつだ。最初枯らしたら嫌だなと思ったけれど、店の人に詳しく育て方を聞いているうちに、それくらいなら自分でも育てられるかなと連れ帰ってきていた。小さくても側に緑のある暮らしは、思っていた以上に張り合いになっている。
 キリのいいところで早めに勉強を止めるとベッドに入り、あの人が読んでいた本を開く。今読んでいるのは古い街道を歩くためのガイドブックだ。実はこれには、自分でも意外なほどハマッてしまっている。古い道や古い建物なんて全く興味などなかったのに、今では連休を利用して行ってみようか? などと計画しだしてしまうくらいだ。

 ただ例の忍者漫画だけは、週刊誌の方もコミックスの方も、まだ開くまでには至っていない。でもそれらを手に取る日もそんなに遠くないような気はしている。
 きっとあの上忍の活躍を読んで心から楽しめるようになったら、俺のリハビリは完了だと思った。











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