ふっと意識が浅いところに浮上してきて(…あぁ、朝か…)と朧に思う。
 でも今日は土曜で休みだ。壁掛け時計を見やっても、まだ時間は早い。もう少し寝ようかなと思う。
(…ぁ…)
 なのに下半身に馴染みのある疼きがあって、その眠りを微妙に妨げようとしていた。
(久し振りかもー…)
 夜更かしや不規則で偏った食事、それに運動不足やストレス。原因は色々あったのだろうけど、長いことあまり元気の無かったあの部分が、久し振りに自己主張をしていた。
(俺って健康になってきたんだなー…)
 体力がついてきて、夜勉強に集中できるのは特に有り難かった。カカシと一緒に過ごした事を忘れたくなかったから、この規則正しい生活のサイクルを守り続けていただけなのに、意外なほど効果が上がりだしている。
(ただ…ちょっとこれは、副産物っていうか…)
 横になったまま体を丸め、随分と悩んだ挙げ句に下だけずり下ろした。けれど窓辺の鉢植えに見られるのさえ何だか恥ずかしいような気がして、もぞもぞと布団の奥に潜り込む。そして迷いながらも、結局ゆるく勃ち上がっていた自身をそっと握った。
 そのまま本能に導かれて軽く手を動かしだすと、久し振りのせいか幾らもしないうちに出てしまいそうになり、歯を食いしばる。
「…んっ…ぅん…ッ…」
 達するにはあまりに早い気がして一生懸命我慢していると、何も見えなかった瞼の裏に、何やら見覚えのある顔が浮かんできた。
 通った鼻筋、形の良い薄い唇。少し影のある青灰色の涼しげな目元に、銀色の艶やかな髪…
(…ぁ、うそ…ちょと、それダメ…だって…)
 幾ら一時期一緒に住んでいた憧れの存在だからって、それは流石にいけないだろうと、不適切な映像を瞼の裏から追い出そうとするが上手くいかない。しかも握った所はますます気持ちが良くなってきて、情けないのにどうしてもやめられそうにない。
「…ぅッ…うっ…く…」
 その間にも、瞼の裏の男はこちらの焦りも我慢も快感も何も知らないといった様子で、とても穏やかに微笑んでくる。何とか他の映像に切り替えようと試みても、それ以外何ひとつ浮かんでこない。自分はいつの間にこういうこととあの人をセットにしてしまってたんだろうと、一瞬プチショックを受けるが、そんな下らない葛藤など一気に押し流してやると言わんばかりに、腰の奥から湧き上がるような大波がすぐそこまで迫ってきている。
(…そんな…そんな…、…ぁ…ぁっ…どうしよ…、マズイ…)
 瞼の裏にくっきりと浮かんだその彫りの深い端正な横顔を見ていると、胸も目頭もあそこも何もかもがいっぺんにかあっと熱くなりだした。体中が火照り、汗ばんでいくのが分かる。内側の深いところから一気に駆け上がってくるものを、外側からどうやって止められるだろう。
(…はぅ……も…出る…!)
 けどその前にすることが。
(――ティッシュ…!)
 早く手に取らないと間に合わない。久し振りだったせいですっかり手順を間違えていた事に、今頃になって気付く。
 布団の中で必死になって体を起こし、四つん這いになったまま何とか手だけを出した。確かベッドの頭側の方に、ティッシュボックスがあったはずだ。
(…早く…、あぁ、ダメだ、出る…ちょっ、待て…! ――あぁッ…!)
 直後、凄い快感が背筋を走り抜けていく。
 目の前で、涼しげな目元が優しく笑っている。
「…ッ!!」
 ティッシュを求めて滅茶苦茶に振り回していた手がびくんと強張り、何もない棚を叩いた音が虚しく響いた。

「…ぁ…あふ…っ…」
 ほんの短い間だったが、久し振りの吐精は恐ろしく気持ち良かった。どっと体の力が抜けていき、四つん這いだった体が布団の下でぐにゃりと崩れていく。
 やがて少しずつ呼吸が整ってくると、快楽に負けて色々と失敗してしまった事に対する後悔や罪悪感がじわりと湧き上がってきた。
(――あぁ…やっちゃった…)
 シーツはもちろん、恐らくは上着も汚してしまった。しかも自分は一体誰の姿に興奮していたというのか? 思い返しただけでも恥ずかしくて、自己嫌悪に陥る。
(こんなとこ…ウッキー君にだって見せられないよ…)
 蒸した布団の中で、くったりとしながら思った時だった。
 ばさぁっという音と同時に被っていた布団がいきなりめくられて、ようやく落ち着きだしていた心臓が弾け飛びそうな勢いで跳ね上がった。
 目の前が瞬時に明るくなり、籠もっていた生温かい湿気が一気に逃げて、かわりにヒヤリとした空気が剥き出しの下半身を撫で上げる。
(――な…ッ?!)
 突然のことに訳も分からず、声さえ上げられない。咄嗟に体を固く強張らせ、ぎゅっと目を閉じた。

「――オイ、いつまで寝てる」
「!?」
 薄く薄く、目を開ける。
 とそこには、清々しい朝の風景には恐ろしく不似合いな、モスグリーンのごつい戦闘用ジャケットを着込んだ、銀髪覆面の土足男がこちらを見下ろしていた。
「――…カ…ッ…」
 それ以上言葉が出てこない。
 イッた時なんて比べ物にならないくらい、頭の中が真っ白になっていて、もう何も考えられなかった。
「前に雷切くれた時、かなり効いてたみたいだからな。ショックで勃たなくなったらマズイなとは思ってたが……まぁその様子なら大丈夫だろう」
 男は斜めに付けた額当てを外して畳の上に無造作に落とすと、黒い口布を指先で引き下ろした。
「帰ってやったぞ」
 その口元は、堪えきれない可笑しさから大きく引きつっていた。




「――成る程。じゃあその薬師とかいう男にそそのかされて、オレの存在を疑ったために、口寄せの解印となるものが発動されたと、お前はそう考えてるんだな?」
「…うぇっ…っぐ、…ぅっ……うん…」

 風呂場で洗濯機が回っている。
 あの後声にならない声を上げた俺は、それこそ無我夢中で着替え、死んだ気になって汚したシーツを交換するや、ベッドに跳び乗った。
 そしたらまだ向かい側にカカシが居て、それを見た途端何だかホッとしてぼろぼろになってしまった。
「ったく…頼むからいい加減泣き止んでくれ。話が進まないだろうが」
「…ごっ、ごめ…」
 カカシが目の前に寄越してきたティッシュボックスからペーパーを抜き取り、涙を拭いて鼻をかむ。道理でさっきティッシュを取ろうとした時、思っていたところに無かったはずだ。前夜の食事中に口を拭くのに使ったまま、ガラステーブルの上に置きっぱなしになっていたのだから。
(でも置きっぱなしにしておいて、ホント良かった…!)
 あの瞬間棚に勢いよく手を突かなかったら、きっとカカシはここにいなかっただろう。何となくだけど、そんな気がする。
 世の中って何がどう作用するか本当に分からないものだ。確か最初にカカシを呼んだ時も、きっかけはたまたま不安定に置いてしまったコミックスだったりしたっけ…と思い出す。
「ま、とりあえずオレが呼び付けられたり戻されたりする切っ掛けみたいなものは、何となく分かった」
「え、ホントに?」
「分かったところで、オレにはどうしようもないみたいだがな」
 上忍がやれやれといった調子で小さく溜息をついたのを見て、急に不安になった。
「カカシ…怒ってる? そのっ…俺に勝手に呼ばれたり戻されたりして…」
「あぁ? ま、そうだな。お陰で本来しなくてもいい苦労を随分とした」
「…ご、ごめんなさい」
「但しそれ以上に見聞が広まったのも確かだ。何も悪いことばかりでもなかったさ」
 その言葉にどれだけ救われただろう。ホッと安堵の息を吐くと同時に、正直な気持ちがほろりと出てくる。
「カカシが居なくなって、俺かなりキツかった。これでも結構落ち込んだりしてさ」
 てへっと照れ隠しに笑った。でも向かいで何か考え込んでいるような様子のカカシは笑わない。
「――実はオレも…元の世界に戻ったって分かった時、もっと喜んでもいいはずなのに、あまり嬉しくなかった」
「え、なんで?」 
「その…何というか……だな。何かが物足りないっていうか、とにかくその…落ち着かなかった。どうしてももう一度アンタに会いたくて、色々考えた挙げ句に時空間移動忍術を会得しようと思いついて修行を始めてもみたんだが、なかなか上手く行かなくて…。このまま開発に手間取ってぐずぐずしてたら忘れられてしまうんじゃないかって、焦ってた」
(えっ…)
 ぐしゃぐしゃだった赤い顔が、紙を広げたみたいに平らになる。
「不器用なもやしっ子で、要領が悪い上に鈍くてすぐに腰抜かすようなお前でも、もう二度と会えないかもしれないと思ったら、かなり堪えたよ」
 カカシは俯いたまま、頭の後ろをばりばりと掻いた。
「えへへ…おかしいな…俺、今ボロクソ言われたのにね。ハハハ…どうしてかなぁ、変だな…なんかメチャクチャ嬉しいかもしんない…」



(もしかして…)
 向かいで真っ赤な目をして笑っているイルカを見ながら考える。
(この男が知らずに練っていたチャクラってのは、オレの存在を信じる熱意そのものだったのかもしれないな)
 道理で口寄せの際の術式や解印を訊ねても答えられないわけだ。
 そんなものは、最初から存在しなかったのだから。
(でもそれにしちゃ、随分とあっけらかんとしてるような…?)
 以前より格段にすっきりとしている室内を見回しながら思う。
 自分が居なくなった後、イルカはオレが使っていたものをきれいさっぱり片づけてしまったらしい。その潔さというか立ち直りの早さにはある種の強さを感じたが、片づけられた者としては内心複雑だ。

 訳も分からず再び元の次元に戻された際、オレの尻ポケットにはイルカから貰った軟膏が入ったままになっていた。
 彼の世界では、無香料だとかいうあの独特の匂いには誰も気付かないらしいが、こちらの世界ではそうはいかない。自然界にはあり得ない匂いに、一発で弟子達に「カカシ先生、なんか匂うわよ?」と言われ、忍犬にも「悪いことは言わん。それは処分しないと後々面倒なことになるぞ」と指摘されていた。
 だがどうしても捨てる気になれなかった。自分でも何をやっているのかと思うのに、まるでお守りか何かのように頑なにポケットに入れ続けた。
 これさえ持っていれば、またいつかあいつが見付けてくれるとでもいうかのように。
 だから再びイルカに呼ばれたと分かった瞬間、何とも言えない気持ちになった。
(なのに部屋にはオレの居た証しがどこにもない上、当の本人は己を慰めるのに夢中だったとは…)
 何やら全身から力が抜けていくような気がする。この男、考えていることが手に取るように分かるようでいて、時に本当に分からない男だ。
(――まっ、いいか…)

「ね、カカシは向こうに帰って大丈夫だった? 怒られたりしなかった?」
 イルカが恐る恐るといった様子で聞いてくる。
「当然、怒られたな」
「うわ、やっぱり…!」
 そのぎゅっと顔を顰める様子は、以前と何ら変わらぬ素直な彼らしいものだ。思わず口元が綻びそうになる。
「弟子達に『ハイッ、それウソ!』ってね」
「え? それだけ?」
「ああ。どうやらお前の下手くそな口寄せが解かれた時、どこをどう通ったか知らないが、時間を遡りながら向こうに戻ったらしい。こっちではひと月以上過ごしたつもりだったが、向こうは半日程度しか進んでなかったからな。直行せずに、後戻りしたようなイメージだが…、ま、そういう意味では助かったよ」
「うはぁーそうなんだ?! よ、良かったぁ…!」
「それより靴は履いてないわ、任務にあるまじきおかしな服装してるわで、そっちの追求をかわす方が大変だったぞ」
「ぷははっ、任務にトレーナーとジーパンで行っちゃったんだ? カカシ先生の権威ますます失墜〜」
「ますますは余計だ」
 二人で笑った。

「あぁでもこうしてまたカカシと話せるなんて夢みたいだ! ホントに良かったぁー」
 その無邪気な言葉にはっと我に返った。
 そうだ、いつまでも再会に浮かれてばかりもいられない。やるべき事だけは一刻も早くやっておかないと。
「イルカ」
 焦るな、落ち着けと思うのに、気が急いて声音に現れてしまう。
「ん? なに?」
「覚えてるか、最初にオレが口寄せされた時のこと」
「うん、もちろんだよ。あんな衝撃のシーン、そうそう忘れるわけないよ」
 そう言って呑気にケラケラ笑っている。
「お前は確か『契約なんてした覚えない』って言ってたが」
「あぁ? うん、そだね。だって血の付いた手でベッドを叩くのが口寄せになるとは思ってなかったから」
「正式に……結ぶか、契約」
「――ぇ?」
「え、じゃなくて。ったく鈍いな。もう二度と離ればなれにならないように、契約するかってことだ」
「ケイヤク? どうやって?」
「簡単だ。イルカは偶然みたいなものでしかオレを呼べないんだから、オレがお前を確実に呼び出せるようにする。オレの契約書にサインして、血判を押せばいい」

 こちらをひたと見つめるカカシの右目は、真剣そのものだった。言葉にも微塵も迷いがない。
(…契約…? ……俺が、カカシと…?)
「…………」
 何と答えていいのか分からなかった。でもとても大切な事のような気がする。きっと携帯を新規で買うより、いや家を借りるより、とにかく俺が今まで交わしてきたどの契約よりも遙かに大事な『契約』。
 だから迂闊に返事をしてはいけないんじゃないかという事は何となく分かる。けれど、頭の中がぐるぐるして、これだって思える言葉が出てこない。
 だがカカシは、その迷いの時間を無言の了承と受け取ったらしかった。
 慣れた手付きで胸ポケットのストッパーを外すと、小ぶりの巻物を一つ取り出す。
 それを紐解いてテーブルに広げると、全く読めない独特の文字列が整然と並んでいるのが目に入った。文字の下には赤黒く変色しているものの、幾つもの血判が押されている。但し8つのそれらは大小様々な大きさの、可愛らしい肉球の数々だ。そのどこか花びらのようにも見える形に、思わず笑みが浮かぶ。
「あ! ねぇ、これってパックン?」
 一番小さい肉球を指差す。
「あぁ」
 短く答えたカカシは、もう後ろのポーチから携帯用の筆と硯を取り出している。
 それを見ると、何だか急に不安が沸き上がってきた。
「あ、あのっ、でも俺さ、ここに契約しても、パックン達みたくカカシの役に立てないよ?」
「そんなことは心配しなくていい。イルカはここに名前を書いて、血判を押してくれればいいんだ。もう決めたんだ。大切な者とはしっかり契約しておかないと、後で必ず後悔する」
(ぇ…?)
 思わぬ言葉にずきん、とした。
 目の前の男は「そんなのの繰り返しはもう沢山だ」と呟きながら、細長い指でぐいぐい墨を擦っている。
(大切な、者…?)
 上忍の横顔をまじまじと見つめるが、左側から見たカカシはかかる銀髪のせいで表情は分からない。
「さっ、名前書いて。ここ」
 墨を擦り終わると、すぐに筆を浸して手渡された。片方の指は、書く位置を指し示したままだ。
(上忍でも、せっかちになる事ってあるんだな…)
 使い込まれた様子の筆を、見るともなく見つめる。
「さぁ、早く」
 その急かす勢いに背中を押されるようにして、言われるがままに名前を書きはじめた。
「字、下手だな」
 書いてる途中から言われる。
「余計なお世話!」
 でも言われて初めて(そういやここ何ヶ月も、まともに字を書いた事なんて無かったっけ)と思った。
 スケジュールは全部携帯に入れてるし、履歴書だってスキル表現の場だから、パソコンで作って提出した。授業もキー入力ばかりでホワイトボードに書くことは殆どない。筆なんて持つの、多分小学生以来だ。これじゃ下手にもなるよなと、ちょっと反省。
 そんな事を考えているうちに、カカシが突然後ろのポーチからクナイを取り出した。その非日常の鋭さにギョッとして思わず身を引くと、こちらに柄が向くように素早く持ちかえる。
「ぱそこんやるのに、一番差し支えない指でいいから」
 彼の言葉は、優しいけれどきっぱりとしていた。自分が血判を押すことを何ら疑っていない。
(でも……)
 目の前に差し出されたクナイに、どうしても手を伸ばせなかった。こんなに鋭利で剥き出しの刃物なんて、縁がないから正直ちょっと怖い。幾ら最近料理をするようになったからって、この刃物の形状と鋭さは、平穏な日常からは明らかにかけ離れている。
「どっ、どれも使うよ〜」
 眉を寄せて小さく笑う。
 すると上忍が、どこか落ち着かない様子で急にそわそわしだした。
「その…字が下手っていうのは撤回する。悪かった、謝るから」
「別にいいよ。それはホントの事だから。やっぱマズイよね、先生の字が下手じゃ、子供達にだって笑われちゃうもんね。これからはなるべく手で書くようにするよ」
「やっ、だから……そうじゃなくて…」
 俯いたカカシは、口の中で何か言葉を探すかのようにもごもごしている。その顔が、何かを思いついたみたいにパッと上がった。
「お前が自分で切れないなら、オレがやってやろうか? 大丈夫だ、すぐ治るように上手くやる」
 カカシの手が、自分の手首を掴んだ。
「えっ…」
 反射的に手を引っ込めようとして、上忍の予想以上の力の強さに驚く。
 いや別に指を少し切られるくらい、どうってことない…とは思う。
 そのくらいの傷、子供の頃ならいつでも付いてた。共働きで遅くならないと帰ってこない両親の気を惹きたくて、わざとはしゃいでは怪我をして帰っていたから、その気になれば自分で指を少し切る事くらいなら出来ない事もない、だろう…うん…多分。
 ただ、その傷を付けるのが『何があっても二度と離れないための契約』なのだとしたら。
(……なんか…なんか…)
 どこか釈然としないものがあった。もちろんカカシの言う通り、いつでもどこでも会えるなら、それはとても便利だし有り難い事だ。正直頭の隅では(契約した方がいいんじゃ…)という思いも強くある。
 なのにどうしても何かが、どこかがすっきりとしない。
「――…やっぱり止めとくよ」
「何故?!」
 間髪入れず尋ねられたその勢いに、思わず首を竦める。
「うん…、何て言うか…上手く言えないんだけどさ。ここで契約して『カカシが居なくなっちゃったけど、またすぐに会えるだろうからいいや』なんて後で思いたくないんだ。だから今のままでいい。今のままなら『今日も一緒に居られて良かった』ってずっと思えるから」

 










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