翌朝。
「じゃあ、行ってくるよ。昼ご飯、そこの棚にカップラーメン買ってあるから好きなの食べて」
 玄関で靴を履きながら振り返ったものの。
「オレの飯の心配なら無用だ。帰りもオレの分は買ってこなくていい」
(え…っ)
 すっかり定位置になってきた感のある、パソコン椅子に座ったカカシの返事に思わず足が止まった。
「…だっ、大丈夫だよー。心配とかそういうんじゃないから。――あ?もしかしてあんまり美味くない? 毒ならホントに絶対入ってないってー」
 彼は不測の事態に備えるためか、最初椅子に腰を下ろすのを嫌って、よく机の端に尻を片側だけ乗せていた。が、すぐにまた俺が散らかして机を一杯にしてしまうことから、彼はそこを定位置にすることを諦めている。
「そういう事じゃない。いいから黙って言うとおりにしろ」
 その言葉に、ついつい唇がへの字に曲がって前に出る……のを見られないように俯く。
「それよりイルカお前、政治には興味ないのか?」
「え? 急になに? …政治?」
 思わぬ言葉に言葉尻がどこか恐る恐る、という感じになる。彼のこの問いかけが、夕べのテレビ番組の一件からきているのは間違いないだろう。うへーどうしよう、朝っぱらからまた気まずい事になりそうな気がするぞ。
『晩ご飯なら買ってくるからさ、遠慮しないで食べなよ』と言うつもりだった台詞をひとまず脇に置く。
「あぁ、他国の国情とか、自国の政策なんかだ」
「ぅう? …うーん、政治かぁー。いやその、全くないとは言わないけど…正直あんま興味ない…かな…?」
 あはっと笑い、何とかこの場はうやむや…じゃない、穏便に済まそうと試みる。
「興味、ない?」
 その一段と低い声に、内心で(もしかして今一番してはいけない返事をしてしまったのか?!)とうろたえる。
「だだっ、だってさー、ぶっちゃけ今のシステムじゃ、誰が何をどうやったって、そうそう世の中変わんない気が、するって…いうか…」
「新聞も、読まないのか?」
「え〜〜? 新聞なんて勿体ないよ。テレビとネットがあれば十分だろ?」
「…………」
「ごっ…、ごめん。あの、カカシに意地悪する気は全然ないんだけど、その…お金、なくって。暫くテレビで我慢して?」
 両手を合わせ、拝むような仕草で頼む。
 カカシは俯き加減のままほんの小さく溜息をついただけで、それ以上何も言わなかった。だが、それだけに複雑な気持ちになる。
 お金が無くて新聞まで回せないというのは本当だ。それでなくても今週からは二人分の食費が計上されているのだ。幾らカカシの頼みでも、今の俺にそんな余裕はとてもない。
 彼が木ノ葉の里でどんなに高額の報酬を得ていようと、この世界で通用する通貨を持っていない以上、生活費は全て自分が賄うしかない。勿論この先もずっと頑張り続ける意志はあるけれど、正直どこまでやれるか心許ないのも事実だ。
 それにもしカカシが新聞を読み始めたとしたら、この世界のことを知れば知るほど、彼の感心はこの家から外へと移っていってしまう気がする。彼は何に興味を持ったらいいか分からない俺なんかとは、根本的に違うのだ。
 そうなれば、こんな狭苦しくて古い家や、今一つパッとしない俺の事なんて、すぐに取るに足らない存在になってしまうに違いない。
「……行ってくる…ね…」
 色々と正論からずれている情けない部分には気付かなかった事にして、俺は後ろ手にドアを閉めた。




 四日目。
 まだぼんやりした起き抜けの頭のまま、顔を洗わねばと洗面所に行きかけて、側の回転椅子に座っていたカカシに呼び止められた。
 昨日「飯は要らない」と強く言われたことから外食して帰ってきた俺は、早く風呂を済ませてカカシと話がしたかったのに、ベッドに座って髪を拭いていたはずが――気付いたら朝だった。その時ふと(もしかしてカカシに何かの術で眠らされたんじゃ…?)という考えも浮かぶには浮かんだけれど、朝に滅法弱い俺はそれ以上のことを深く考えるのが億劫で、そのままにしてしまった。
「ぁふ〜…おはよ〜…んー? なに…?」
「この世界の、あぁいやこの国の…、もし無ければこの周辺の町や村が分かるだけでもいい、地図を持ってないか?」
(ぇ…)
「地形図でなくともいい。簡単なものでもいいから、地図を持ってたら貸して欲しい」
 ネットやテレビは出来る限り見たくない。でもまともな本も新聞もない上、肝心の俺にも本当に何の能力もないと分かると、情報収集の道を断たれた上忍は、いよいよ家の外に出て何とか活路を見出そうとしているらしかった。
 聞けば今までも昼夜問わず、忍鳥や忍犬を使っては、どこかに木ノ葉の里に通じている“穴”がないか一帯を探し続けていたという。
「ただどうもこの辺には手掛かりはないみたいだからな」
 それを耳にした途端、左胸の奥がズキンとなった。
(…カカシが…この家を出ていく…?)
 一番恐れていたことが、早くも現実になろうとしていた。今までわざと何の関係もない話題を選び、この家の外の事にも極力触れないようにしていたつもりだったけれど、案の定何の役にも立っていなかったのだ。突然灰色の雲が胸を覆いだす。
(…そんな…いやだ…)
 とは言え、彼が生まれ育った元の場所へ帰りたいという思いを止めることなど出来はしないし、その気持ち自体もよく分かる。きっと今頃、里の方でも彼が居なくなったと心配しているだろう。それも理解できた。
「地図……あるよ、…待ってて」
 俺は上京した際に慌てて買った、都内全域が載っているポケット地図を押し入れの奥から探し出して手渡した。本当は関東一円が載っている広域のロードマップも持っていたけれど、咄嗟に忘れているフリをした。間違っても彼にそんな遠くまで行って欲しくない。心の中で、ゴメンと小さく謝る。
「でもカカシ、夕方には戻って来るよね? 絶対戻ってくるよね? 今日俺給料日だからさ、何か美味いもの一杯買ってくるから。あ! そうだ鍋、鍋にしよ? それなら俺でも作れるから!」
「…………」
 だがカカシは何の返事もしない。無言のまま、片目でこちらを見ている。
 それでも何とかして、彼から色よい返事を貰ってから出掛けたかった。なのに部屋の壁掛け時計をチラと見ると、刻々と残り時間が少なくなっている。サラリーマンはこれだから不便だ。ちょっぴり嫌になる。一瞬脳裏に浮かんだズル休みの案は、到底やる勇気が出ないことから打ち消すしかなく。
「お酒も買ってくるよ。何がいい? やっぱビール? 日本酒? あ、ワインなんてどう?」
 大急ぎでワイシャツに袖を通しながら、わざと明るい声を上げた。そうさ、明日はようやく待ちに待った休みなんだ。やたらと長かった一週間がようやく終わって、明日から二日間は自由に出来るんだ。今夜はカカシと一緒に一晩中でも語り明かさなくちゃな!
 だが、カカシの返答に、続く言葉を無くした。
「余計なことはしなくていい。食料なら兵糧丸がある。お前は遅刻の理由を考えるのも言うのも下手そうだからな。いいから早く行け」
「な……」
 棒立ちになったところに鞄が投げて寄越されて、腕の中にどさりと音を立てて落ちた。






 その日は一日、自分が何をしているのかよく分からないまま、ただ早く帰りたいとそればかり考えていた気がする。
 今までどっちを向いて歩いたらいいのか分からなかった俺にも、ようやくこっちだと思える方向が見つかったような気がしていたのに。なのにそれは実に呆気なく、早くも手の中から逃げていこうとしていた。
 失敗続きだった仕事が終わると、(ままよ、とりあえず買うだけは買っておこう)と気を取り直し、食材を求めにスーパーに寄る。生鮮食品売り場に来るのなんて、一体何ヶ月ぶりだろう。その広さと賑やかさに心なしか気分が浮上していく気がする。
(そういや鍋ってどんな食材が入ってたんだっけ?)
(酒は何にするかなー。カカシは何が好きなんだろう?)
 などと考えているその間は、今日やってしまったうっかりミスや、出掛けにカカシが言っていた一連の台詞を、一時的に忘れさせてくれていた。

 しかし、ただいまとドアを開けて誰もいない部屋を見るや、一気に灰色の重たい空気が胸一杯に広がっていくのが分かる。
「……カカシ…?」
 もしかして、その辺に隠れているだけかもしれない。そう思って発した声は、この家には最早自分一人だけしかいないのだとはっきり認識しただけで終わった。それどころか、家中のどこをどう探しても、今朝までの数日間カカシが居たという痕跡すら見つけられない。
 挙げ句の果てには(待てよ…? あれってもしかして、凄いリアルな夢だったとか…?)などと思い出す始末だ。
(いや違う! カカシは居た。絶対居た!)
 鼻傷を擦るとまだかなり痛むのだ。これが何よりの証拠ではないか。いや、ホントは何の証拠にもならないけど、でも証拠なんだ! 大丈夫、彼はきっと帰ってくるはずだ!

 何かから逃げ出すかのように、俺は台所に立った。
 長いこと流しの奥に仕舞い込まれていた食器や、リサイクルショップで買ってはみたものの、一度しか使ってない深型のホットプレートを取り出して丁寧に洗う。材料も袋から取り出して皿に並べだしたが、狭いしやり慣れないから何から何まで手間ばかりかかってしまう。
 それでもネットできれいな盛りつけ方を探したり、下ごしらえを解説したページに見入ったりして、途中からはそれなりに夢中になった。
 ガラステーブルに水炊きの食材が所狭しと並ぶと、その久し振りの華やかさに、自然と気分が明るくなる。
 酒は焼酎にした。カカシは沢山呑めそうな気がしたから、質より量を取った格好だ。
「――よし!」
 何とか用意は全部出来た。とりあえず風呂に入ろう。
 俺は、帰ってきたままで脱ぐのも忘れていた、水色のワイシャツのボタンを外した。






(――カカシは呑めそう、……か)
 TVがミッドナイトシアターのマイナーなタイトルを映すと、俺はTVを消してリモコンを脇に置き、ふっと小さく溜息をついた。
 いつになく賑々しいテーブルを前にして、かれこれもう5時間以上が経過していた。その間には風呂も入ったし、ネサフもやったし、早く帰りたいがためにこっそり持ち帰ってきた仕事もやった。夕べはなぜかやたらと早く寝てしまったからお陰で体力的にもまだまだ元気で、順番まるきり逆だろうと思いつつも、食材に埃除けの覆いをして部屋の掃除や整理整頓までした。
 でも、カカシが帰ってくる気配は全くない。自分が動かない限り、部屋は何の物音もしない。
 気付いたら、今消したばかりのテレビをまた点けていた。
(……俺って一体、何やってんだろ…)
 こんなことして。
(――もしかして……俺って一時的に頭が変になってた、とか?)
 酷く嫌な考えが脳裏を過ぎる。ひょっとしたら自分は、仕事や生活の行き詰まりから居もしない人を目の前に作り出して、その架空の世界に身を置くことで現実逃避をしてたとか?
(その結果が、これ…?)
 目の前に広がる、とても一人では食べきれない量の鍋の用意。
 全部自分でやっておいて…いや、自分でやったからこそ、それはかなり痛々しい光景として目に刺さる。
(……あーぁー……)
 とても直視してられなくて、両腕で抱え込んでいた膝の間に顔を突っ込んだ。
(あーやだな、どうしよう。こんな時ってどうすればいい?)
 次にやるべきことが何も思いつかないまま、独りの週末の夜が更けていく。
 俯いた視界には、擦り切れた古い畳が映っている。今は何も考えずに、この畳の目でも数えてみるか……2、4、6…ってうわ、これムリ! いや怖すぎ!

(…も、寝るかな…。…別に腹減ってる訳でも、ないしな…)
 空腹なんてとっくの昔に通り越している。
 それに一度眠れば、明日の朝にはまた違った…元の自分で起きられるかもしれないし? 目の前にあるこの大量の鍋セットだって、朝からバクバクいけちゃうかもしれないだろ?

(眠ったら……あえるかな…)
 深いとこから溜息が出た。






         TOP    裏書庫    <<   >>