(――ったく、参ったな…)
 密集した人家の上を次々に飛び移りながら、カカシは口布の下で唇を噛んだ。
 何故突如、こんな訳の分からない事態に至ったのか? 未だに何の理解も納得もいっていない。自分はあの日、弟子達と低ランク任務に出るために、いつものように一人で集合場所に向かっていただけだった。その瞬間まで、別段何も変わったことも無かったはずだ。なのに突然、本当にいきなり、酷い目眩を伴う空間の歪みのようなものを感じて、マズイと思った刹那には、もうどことも知らない他人の家の中に居たのだ。狐につままれたようとはまさにこの事だった。そのあまりの不可解さには今も尚、やり場のない焦りや苛立ちばかりが募る。
 オレを一方的に呼び付けたはずのあの男も、「解印なんて切れない、そんなものは知らない」と頑なに言い張る。どうせ嘘だろうと試しに痛みを与えて精神を疲弊させ、ギリギリまで追い込んだところで、写輪眼を使って頭から経絡に至るまでをくまなく探ってみた。
 だが確かに本人が言う通り、チャクラを練る力は元より、その心得すらも欠片も無い、ごく普通の一般人と分かっただけだった。
 ならばとこの異常事態を仲間達に知らせるため、何度か昼間に忍鳥を放ってみたりもした。だが行き先が見つけらずに、翌日には全部舞い戻ってきてしまう。忍犬達も呼び寄せて走らせてみたものの、『街中がやたらとガス臭くて鼻が利かない』と、幾らもしないうちに帰ってきてしまう有様だ。
(海野イルカだー? ふざけんのもいい加減にしてよね)
 自分は全く違う世界に否応なく連れてこられてホトホト困り切っているというのに、すぐ近くにやたらと見覚えのあるような無いような男がいる。またそれが外見は似ているクセに、中身は子供っぽくて頼りない男なのだ。こんな男とオレが、契約を交わす理由がなかったし、そんな記憶もこれっぽっちもない。
(大人をナメるなよ…)
 どこか自分が高いところから小馬鹿にでもされて弄ばれているような気がして、考えるだに苛々した。そして最後には長嘆で終わるという事を、この数日間一体何度繰り返しただろう?
 これでも千の術をコピーしたと、その道では通り名で呼ばれている忍だ。今日も一日街を彷徨いながら、建物の影や宵闇に紛れて思いつく限りの方法を試している。だが全ては徒労に終わっていた。
(このオレが、為す術なしとはね…)
 どうやら上忍なんて肩書きは、あの世界でしか通用しない、さして取るに足らないものだったらしい。
 どことも知れぬ超高層住宅の屋上の給水塔に座り、夜空に向かって深い溜息をつく。星を見れば、例え世界のどこに居ようとも一瞬で方角が分かる自信があったが、困ったことにこの街は夜だというのに信じられないほど明るくて、その肝心の星さえもロクに見えない。
(なんなんだろうねぇ、この次元は…)
 自分はこのおかしな世界で、これからどうなってしまうのだろう。そもそもこんな見ず知らずの世界では、自分が自分で居られるかさえも怪しい気がする。これならイタチの月読にやられて、昏々と寝込んでいた方がまだましだったのではないかなどと、至極情けないことまでが脳裏を掠める始末だ。

(…四代目…。あなただったら、どうします?)
 歴代の火影の中で、唯一異次元空間を自由に行き来出来ていたあの恩師。
(オビト、お前だったら…?)
 自分の左目に、今も尚生き続けるあの仲間。
 屈託のない、二つの笑顔に問いかけた。




 何とかして手掛かりを見つけようと夜の街を彷徨っているうちに、どういう訳かあの男の家の方角に向かって移動しつつある自分に気付いて足が止まる。
(――ふ…、馬鹿馬鹿しい…)
 俯いて自嘲すると、今朝出掛けに必死の面持ちで何度も「帰ってこい」と言っていた黒髪の男の姿が思い浮かんできて振り払った。
(戻って何になる?)
 確かにここに自分を呼んだのはあの男かもしれない。だが解印を切れない以上、もう奴に用はないのだ。しかも見たところまだ上手く独り立ち出来ておらず、生活も苦しいらしい。そんな者の家にいつまでも厄介になる事自体、出来ない相談だった。
 なのに、どうしたというのだろう。任務に行く時間を気にしながらも、一生懸命訴えかけていたあの真っ黒な瞳が、払っても払っても浮かんできてしまう。
(ったくこんな非常時に…、もっと冷静になれ)
 己のやるべきことなら、他に幾らでもあるはずだ。
(おかしな情に流されるな)
 あんな子供みたいな男にいつまでも構っている場合か。
 何度も強く言い聞かせる。いや言い聞かせているはずだった。なのに足はというと、まるで別の意志でも持ったかのように、元来た道を辿りだしている。
 この二本の足は、いつから掟や理性に背くようになったのだろう? 最悪の非常事態を前に、自分で自分のコントロールが出来なくなっている事に少なからず驚く。
(次元の狭間で頭でも打ったかね…?)
 真昼のように明るい、不夜城とおぼしき巨大な街々。
 その光の渦を眼下に見ながら、オレは星より小さなあの部屋の明かりを目指して、向かいの高層ビルの壁面へと飛び移った。





 確かに気配は消していたものの、ドアを開けて履き物を脱ぎ、奴の目の前に立ってもまだ、座り込んだイルカはオレの存在に気付かないまま俯いていた。改めてこんな鈍い奴に呼び付けられた事に腹が立ったが、テーブルの上に所狭しと用意されたものに全く手が付けられていないのを見るや、怒る気も失せる。
「――戻ったぞ」
 ぼそりと声を落とした。
「ヒャぁッ?!」
 途端、心臓麻痺でも起こしたんじゃないかというような凄い声と仰け反りに、こっちの心臓まで飛び上がった。
「カッ…、カカシ!! びびび、びくりしたぁー!」
「それはこっちの台詞だ…ったく…!」
 あぁ、なんでオレはこんな奴の所にわざわざ戻ってきてしまったんだろう。さっきの街でも、少し探せば落ち着ける空き部屋なんて幾らでもあったろうに。
 全て分かった上で戻ったつもりだったが、やはり一通りの後悔はするものらしい。
「あぁ〜良かったー! やっぱり帰ってきてくれたんだ。やっぱり俺の思い込みなんかじゃなかったんだ! やっぱりはたけカカシは、あのはたけカカシなんだね!」
「なんだそれは、訳が分からん。この国の言葉か?」
「もうこの際何だっていいよ! それよりご飯! 早くご飯食べよう!」
(――たく…)

「どうどうどう〜? これさ、全部俺が用意したんだよ、結構美味そうじゃない?」などと言いながら、まだ沸いてもいない鍋に、順番無視でどんどん食材を放り込んでいる。あーあー、本当にこいつは…。
(…もう、どうにでもして…)
「ああそうだ、酒! 酒があった! 今夜は朝まで呑もうっ!」
 大して呑めもしないクセに、湯気の向こうから勝手にこちらのコップに酒を注いでいる。匂いからして、どうやら芋で作った酒らしいが、この未成年男、呑む前からもう酔ってるっぽい。
 イルカは、まだ見るからに生煮えという感じの食材を次々自分の椀に放り込むと、「いっただきまぁす!」と、子供じみた声を張り上げるや、乾杯もせずに食べ出した。その一連の行動には、流石のオレも呆気にとられて見守るしかなく。
(――ま…、いいか…)
 暫くしてようやく我に返ると、そのバカ丸出しの勢いに押されて、半ば観念して鍋の前に座った。手袋を脱ぎ、口布を引き下ろす。面倒だから額当ても取って脇に置く。
 勿論こんな状況でも、長年に渡ってすっかり身に付いている食事作法を飛ばすことは出来ない。
「頂きます」
 目を閉じて、静かに両手を合わせた。
 頭を上げ、右目だけを開けると、向かいのイルカと目が合う。その目は真ん丸で、口は食べかけのものが一杯に入ったまま、ポカンと開ききっていた。
(まったく、コイツは…)
 失礼にも程がある。困ったやつだね、どうも。
「――なに?」
 精一杯不快だということを声音に込めてみる。お前それ、ウチの下忍以下のリアクションだぞ?
 しかしイルカは、椀と箸を持ってカチンと固まったまま、身動き一つしない。オイオイ、また心臓麻痺か? 生きてるか?
(でももう驚かされないから)
 だがイルカの目元に涙が盛り上がりだすと、見る間にその顔がくしゃくしゃと歪みだした。
「…な…ッ?」
 不覚にもこっちまでが固まってしまうと、あろうことかイルカが激しくしゃくり上げ始める。
「ヒック…うれっ、うれじぃ〜…エっぐ、こんなにおいしいご飯…、はじっ、はじめてで、ウッウッ…生きてて、よっ、よっ、よがったぁ〜……うう、うぁ〜ん…!」
 ウソだ、こんな生煮えの鍋が美味い訳がない。
 なんだこの男は?! なんなんだこの世界は?! 食事中に大声で泣き出すのは、この世界ではごく普通の作法なのか?! とりあえず茶碗と箸を置け! 思い切りこぼれてるぞ! いいから口閉じろ、鼻水拭け! あぁ畜生、ホント帰ってくるんじゃなかった。
 激しく後悔しつつ、大きな子供と化した男を宥める。
 だがその後もイルカは、「カカシが初めて作った料理を食ってくれてる」だの、「美味いと言って貰えた」だの、「念願の乾杯をした」だのと言っては、また奥歯を噛み締めながら涙して、食事を中断させ続けてくれたのだった。




(――はーー……ようやく寝たか…)
 オレは心底ぐったりして、背後の砂壁に身体を凭れさせた。
 こんなに疲れる食事は、生まれて初めてだった。任務で最前線にいる時だって、これほどではないだろう。まるで食べた気がしないし、酒も相当勧められて呑んだはずだが、一瞬たりとも酔えなかった。
 この男、本当に気弱なんだろうか? 生真面目と形容するのもちょっとどうかと思う。
(ホント、訳の分からん奴…)
 真っ赤な顔で、瞼をぱんぱんに腫らして畳に伏してしまっている男を、溜息混じりに軽く睨む。だが、返ってくるのはくーかーぴーという調子の狂うような寝息ばかりだ。
「――――…」
 気配を消して立ち上がると、ベッドから掛け布団と毛布を取り上げ、そのまま大の字で倒れているイルカの上に掛ける……というよりただバフッと落とす。
 もしこれが女子供年寄りの類だったら、ベッドまで抱えていってやるのもやぶさかではない。が、こいつはその範疇から明らかに外れている。
(それ以上はオレも知らないぞ。幾らモヤシっ子でも責任持たないから)
 心の中で言い渡しながら、空っぽになったベッドに横になった。掛け物なんていらない。室内には暖房も入っているし、久し振りにまともなものを腹に入れたから、熟睡出来る自信はある。
 イルカに背を向け、枕に頭を乗せた。と、ふわりとあの男の匂いがする。
(…………)
 つきあいの長い同じ上忍連中ですら、許せる匂いの奴なんて一人もいなかったはずだ。なのにこの異世界の訳の分からん男に限って不思議と大丈夫だったのが、自分でも意外と言えば意外だった。

(やっぱこれは、次元の狭間で頭打ったな……)

 次第に意識を深いところに落とし込みながら、オレはほんの僅かだけ口端をつり上げた。





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