「――うそだろ…、なにこの顔…」
 朝、風呂の鏡を見るや、俺は呆然となった。
 酔って泣きながら寝るとこんな顔になるなんて、思いもよらなかった。両の瞼がみっともなく腫れ上がっている。しかも遅くまで度を超して呑みすぎたせいで顔も全体的にむくんでいて、その容貌はまるで別人だ。
「見事な変化だ」
 回転椅子に座ったカカシが鼻で嗤った。くそー、でも本当のことだから反論もできない。しかも口布や額当てで隠す様子もない彼の素顔は憎たらしいほどすっきりとしていて、男の俺ですら見惚れるようなイイ男っぷりだった。
 俺も夕べは酔いと気分に任せて言いたいことを言い、泣きたいだけ泣いたから気分はすっきりしている。けど、この顔だけは何度鏡を覗いてみても頂けない。
 まぁでもカカシが随分と打ち解けてくれているみたいだから、夕べのこともあながち悪いことばかりでもないんだろう。
 考えてみれば、この目の腫れだって昨夜のことが夢じゃないって事を物語っているんだもんな?
 そう思ったら(一緒に出掛けてみようか?!)という、とても晴れやかないい気分になった。



 それにしても、天はカカシに何物与えたら気が済むんだろう? そして俺に対しては、何て早くに気が済んでしまったんだろう?
 シャワーを浴び、腰にタオル一枚の格好で出てきたカカシを見て、俺は同性として羨ましいやら、恥ずかしいやら、情けないやらで、暫し居たたまれない気分だった。
 とにかく、俺ももっと身体を鍛えないといけない。でもカカシに教えてというのは恥ずかしい。大体どんな過酷な修行を課せられるか考えただけでも怖いから、一人でこっそりやろうと心に誓う。(後はいつから始めるかを決めるだけ!)

 風呂から上がり、自分とカカシの服を洗濯して、狭いベランダ一杯にそれらがはためくのを眺めるのは、それなりにいい気分だった。
 カカシには俺の服を貸した。身長が同じくらいだから、体重も同じくらいだ……と思う。多分。
 でも敢えて何キロか聞くのは止めておくことにする。カカシが履いたジーンズのウエスト部分が、少し余っているように見えたから。
「ごっ、ごめん。なんかボロいのばっかで」
「別に、何でもいい」
 そんなやりとりの中、カカシは俺のもっさりして毛羽立った安物の綿シャツの上に、袖が擦り切れてヨレヨレになったトレーナーを着たのだが。
(本当に……何でもいいんだ…)
 俺は半ば呆気にとられてカカシを見つめた。結構悩んで組み合わせを決めたつもりの俺より、まるで無頓着、無造作に着ているカカシの方が遙かに格好良く見えるんだから口惜しい。
 鍛え上げた身体に男前っていうのが、ルール無用の最強アイテムであることを、俺は身をもって知ったのだった。

「靴下は?」
「いらない。足の裏に余計なものがあると、感覚が鈍る」
 だってさ。
 何でもチャクラ調節が気持ち微妙になるそうで…。別に履かないのはいいけど、街中でビルの壁とか垂直に歩いて登っていかないでね、お願いだから。
 その後「そのコーディネートは流石に絶対おかしい!」と俺に言い張られて、渋々支給靴を諦め、素足に履き古したスニーカーを履いたカカシは、もうどこから見ても近所のお兄ちゃんだった。
 但し首から下だけ。
(――はぁー…)
 俺は心の中でこっそり溜息をついた。左目はぴったりと閉じているが、その上に縦に走った傷が嫌でも目立つ。自分の鼻傷なんて、この典型的日本人顔のお陰ですっかり世界に溶け込んでしまってるけど、カカシのそれは全く逆だ。
 ただでさえ目立ってるのに、それを一層際立たせて忘れられなくなるような、とても印象的なものにしている。
 俺は昔買ったまま、殆どかけたことの無かった安物のサングラスを探し出して手渡した。縁なしだし色も薄いけど、これで随分印象は変わるだろう。更にサングラスからはみ出した傷を隠すため、左側だけ前髪を下ろせば完璧だよと勧める。
 だが、カカシは「頭が痛くなる」と言って、俺のサングラス案をあっさり却下。長めの前髪をちょろっと下ろすと「これでいい」と言った。えぇ〜、大丈夫かなぁ。
 まぁでも、この次元では彼の命を狙う奴なんていないんだもんな。これでいいのか。そっか、そうだよな。
(何も隠す必要のない世界って、どう?)
 屈んでスニーカーの紐を結んでいる横顔を、こっそり見つめる。
(この次元も、言うほど悪くないと思うんだ)
 外に出て、上忍の髪が真昼の光を見事に撥ねているのを見ると、嬉しいやら驚くやらで思わず目を細める。
 サングラスは置いてきてしまったけれど、実はあれが必要なのはカカシではなく俺の方だったのかもしれない。
(って、そんなことはもうどうでもいいや)
 今日は目一杯楽しむぞ! おーっ!



 そうして身支度を調えた俺達は、カカシが行ってみたいと言った都庁に向かった。何でも昨日、一際高い建物群が遠方に見えて、興味が沸いていたのだという。
(ふーん、都庁ねぇ…)
 まさか都庁を要望されるとは思わなかった。渋谷とか吉祥寺あたりでどうかな、なんて思っていたから。
 でも「この大都市を一望する」というのが第一の目的なんだったら、確かにあそこが一番いいのかもしれない。
(しかし、都庁って――どうやって行くんだっけ?)
 新宿にあるっていうのは知っていたけど、駅はどこで降りれば近いんだっけか?
 都民失格。
「そういやいつも遠くに見えてるけど、行ったことないなぁ」と言うと、即座に「あんなに高いんだ、あれに向かって歩いていけばいいだろう」と言われた。いやカカシ、こっちの次元の人はね、そういう感覚じゃないから? つか、それじゃあ俺がもたないから。
 駅に向かう道すがらも「金が無いなら歩いた方が…」まで言われたけど、俺は現代人の威信にかけてカカシに電車の切符を握らせた。


 意外なことに、カカシはホームに滑り込んできた電車を見ても、全然動じなかった。予めテレビで見ていたからだろうか? それとも巨大ナメクジやヘビに比べたら、こんなものは取るに足らないからだろうか?(それはあるよね?)
 乗り込んでから「電車、平気なんだ?」と小声で聞いてみた。
「昨日、屋根に乗ったからな」
 落ち着いた様子で、窓の外なんかを眺めながら答えている。
「ヤネ?」
 あまりにも自然に話すせいで、最初意味が分からなかったが、ヤネって、もしかしてこの電車の……屋根ェ?!
「タダ乗りしたのは――まぁ悪かったよ」
「…べっ、べつにぃ〜、ハハ、いいんじゃない? 楽しそうで。ハハハ…」
 笑うしかない。
「で、どこ行ってたの? 秋葉原? 上野? 銀座?」
「いや、赤坂」
「え、赤坂?」
 自分にとって余りにも縁遠い地名が出てきてしまい、咄嗟に返答に詰まった。確かあの辺は、大使館とかテレビ局とか、高級料亭なんかがひしめくような所ではなかっただろうか?
 最初の東京観光の場所としては、随分と変わった場所を選んだものだ。
(ううん…。でも、よく考えたらセンスあるのかもなぁー)
 くそ、俺の案なんかより全然知的でお洒落な気がする。なんだか口惜しい。
「あぁ。…だがこの国の火影は、更にその奥にある水堀の中に居たのだな。道理で赤坂は警備が手薄だと思った」
「コココッ、皇居ーッ?」
 ニワトリみたいな裏返った奇声に、電車の中の人達が一斉に俺達を見た。ま、まずい。俺は小さくなって「すみません」とペコペコする。
「…ちょっ、ちょっと、それってマジ? ホントに皇居行ったの? 中入ったの?」
 電車のドアの戸袋付近にカカシを押しつけるようにして、耳元でひそひそ声で問い質す。俺に詰め寄られて、カカシは迷惑そうに細い眉を寄せた。
「…あぁ…いいところだった」
 聞けばとても心が落ち着いたのだという。
「――もっ……もういい…」
 俺はそれ以上聞くのを止めた。だってなんか怖い。恐らくその水堀の手前の『警備が手薄な所』というのは、赤坂の御用邸の事だろう。
(警備……手薄って…)
 でもカカシにしてみれば、この世界で入れない所など何処にもないのだろう。何せ変化だって瞬身だって、隠遁だって完璧なのだ。この世界の人間が束になったって到底敵いっこない。
 そのうち国会中継で、大あくびをしている議員の向こうを、銀色の影がよぎったりするのだろうか? 永田町や霞ヶ関、はたまた赤坂の料亭で、日夜取り交わされている極秘の会話を俺も聞けたりするのだろうか?
 その想像には、一瞬インターネットも色褪せて見えたほどだった。道理でカカシがテレビやネットを重要視しない訳だと、ようやく納得がいく。
 彼のことだ、どこで何をしようと、例え東京タワーのてっぺんで雷が真っ二つに切られたとしても、騒ぎになるようなヘマは決してしないだろう。
 ただちょっぴり残念なのは、あまりのことに俺がそれらの話を聞く勇気が持てなさそうな事だった。

 そうこうしているうちに、オレンジ色の電車は新宿駅のホームへと滑り込んでいく。
「さっき窓から見えていたからこっちだ」
 電車から降りたカカシは、何の迷いもなく地下通路をぐんぐん歩いていく。彼は恐ろしく方向感覚がいいらしい。自慢じゃないけど、俺なんて地図もまともに読めないから、もうカカシのなすがままだ。
 自動改札を出ると、土曜の新宿の混みようは相変わらずだった。どこから沸いてきたのか不思議になるほど無数の人々が、皆それぞれの目的地を目指して歩いている。
「こっちだ」
 すぐ目の前のビルに隠れていて、都庁のビルなんてまだどこにも見えてないのに、カカシはスイスイと人混みを縫って歩いていく。
「カカ…、ちょと、待って…!」
 何度も人にぶつかりそうになりながら、その後ろ姿を必死で追いかける。でも、カカシとの距離はどんどん離れる一方だ。彼はよっぽど都庁の展望台に惹かれるものがあるらしく、ポケットに両手を突っ込んだ猫背が足早に遠ざかっていく。
 春の陽光に煌めく銀髪が、人混みの中でチラチラと見え隠れしている。それはどこか、もたつくのろまな自分をからかっているようだ。
(ちぇ、いいじゃんか、ちょっとくらい待ってくれたってー!)
 自分の服を着た猫背を睨み付ける。
 幾ら興味があるとはいえ、これはないんじゃないか? ナントカと煙は高い所に登りたがるんだからな! 俺なんか…俺なんか正直言ったら都庁の展望台なんて、アソコが縮み上がるような感じがするから、出来れば行きたくない位なんだからな!
 イー! と心の中だけで顔を歪めて舌を出す。
 すれ違いざまに誰かと腕がぶつかり、その人が持っていた荷物が路上に散らばったのは、そんな時だった。
「わわっ?! す、すみません、すみません!」
 言いながら、慌ててその荷物を拾い集める。相手は気のいいおじさん連中らしく「あ〜あ〜、こりゃしょうがねぇなぁ」と口々に言いながらも、皆手分けをして拾っている。よ、良かったぁー、もしもこれがヤクザみたいな人だったら、大変な事になる所だった。内心ホッと胸をなで下ろす。
 拾いながら「どこから来たの? 今日はいい天気で良かったねぇ」などと話しかけられ、それに愛想良く受け答えする。いつも色んな生徒さんと話しをしているから、この辺のやりとりは割と得意だ。
「ホントにすみませんでした。ぼーっとしちゃってて…」
 てへっと笑いながら、拾い集めたものを手渡す。
 おじさん達が感じ良く「いいってことよ」と言って、背を向けた時だった。
「いい訳ないだろうが」
 いつの間にか、おじさん達の後ろに銀髪のトレーナー男が立っていた。
「ぁ、カカシ! …よ、良かったぁ。絶対はぐれたと思った〜」
 俺の姿が見えなくなった事に気付いて戻ってきてくれたらしい。カカシは携帯持ってないんだから、はぐれないようにしないと。いや、もう絶対にはぐれないでくれって言わないと。
(へ…?)
 だが、よく見ると上忍の手が、何故かおじさんの片腕を後ろに捻り上げているではないか。おじさんの顔が痛みに歪んでいる。
「ちょ…なっ、なにしてんの?!」
「なにって。そりゃ、こっちの台詞でしょうよ」
 とろんとした半眼の上で、銀色の眉毛が僅かに下がる。
「俺がぼんやりしてて、ぶつかっただけだって! いいから、早く放せよ!」
 だがカカシは、わざとらしい大きな溜息をついた。
「尻ポケットの財布。――すられてるの、まだ気付かないの?」
「――ぇ…?」
 慌てて尻に手をやる。
(な、ない?!)
 後ろを振り向いてもう一度目で確認! でもない、ホントにない! さっき切符を買った時はあったのに!
「ウソっ?!」
「ホントだって。ったく鈍いなぁ。アンタに落とした物拾わせて、話しかけながら気を逸らしてるうちに抜いてたよ。だからそいつらもみんなグル」
 そう言ってカカシはおじさんの後ろから長い腕を回し、断りもなく他人のブルゾンの内側に手を突っ込んだ。
 そのイキナリさに驚いて(流石にそれはマズイって!)と思ったのはほんの束の間。細長い白い指が引っ張り出してきたのは、間違いない、何年も使い込んだ自分の財布だった。
「あ…!?」
 そのどこか手品のような光景に、思わず息を呑む。
「さて、じゃあこの財布の中に何が入ってるか、片っ端から言ってって貰いましょうか? もしこれがあなたの財布なら、何が入ってるか簡単に言えるはずでしょ?」
 カカシの声は、怖いくらい落ち着いていた。
「……いや、こ、これは、……お…、オレの財布じゃない。これは、さっき拾ったから、知らない。お前のなら、か、返すよ…返しゃいいんだろ!」
 気のいいはずのおじさんが、急に険しい顔つきになって怒鳴りだした。周囲を行き過ぎる人達が、一人、また一人と遠巻きに立ち止まり始める。
(うわわ、どうしよう、マジやばいって!)
 俺は急に財布よりそっちの方が気になりだした。だってもしも警察なんて呼ばれたら、俺達だって名前や住所を聞かれるに違いない。そうなったら、カカシの扱いを巡ってややこしい事になるのは目に見えている。カカシ、そのこと分かってる? 全然、分かってないよね?!
 必死にぱちぱちキョロキョロと派手な目配せを試みるが、カカシは一切こちらを見ない。
「なるほど、拾ったと。いやー上手いこと言うねぇ。じゃ念のため、どの辺で拾ったのか伺えますかね? あ、返答次第では、もう二度とスリなんて出来ない腕になるかもしれませんから、正確にね」
「ひぃ…ッ」
「え?! カカシ、それはダメッ!」
 その落ち着き払っているだけに尚更怖い言葉に、背筋が寒くなる。
「ダメじゃないでしょ。なに呑気な事言ってんの? 全然お金ないクセに。大体歩いて家まで帰れない人は、お金なくちゃ困るんじゃないの?」
「そっ、そうだけど……でもダメだって! 財布が戻ればそれでいいんだから! 暴力反対!!」
 こんな時なのに自分の懐事情まで冷静に指摘されて、一瞬ウッと詰まる。ここは何を置いても穏便に済ませるつもりだったのに、気付けば自分が一番大声を張り上げてしまってるし。
「たく甘いねぇ。こういう輩はね、相当痛い目見ないとまた同じ事を繰り返すタイプよ。アンタ知ってる? 情けは人の為成らずって。それともこっちにはそういう言葉ないの?」
「いーからっ、もう行くよ!」
 キッとカカシを睨んで、トレーナーの袖口を掴むと、ズカズカと歩き出した。背後の上忍は思ったより素直についてきてくれている。
 しかし、すぐに後ろでワイワイと人の騒ぎ立てる声が聞こえだすと、(ヤバッ、やっぱ来たよ警察!)と、次の瞬間には全速力で走り出した。





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