「――は…、はぁっ……ちょっ、ちょと…、もっ、…ダメぇ〜…」
 息出来ない、もう死ぬなどと言いながら、俺はどこかのビルの陰に走り込んで、そのままコンクリートの上にぶっ倒れた。足がガクガクと派手に笑っている。両足共今にも攣りそうで、暫くは立ち上がれそうにない。こんなことになるんだったら、家から都庁まで二時間歩いた方がまだマシだった。断言できる。
「死ぬってね…、まだ1分くらいしか走ってないんだけど?」
「でももうムリ、ムリだから!…立てないし――ってうわッ、おおお、おじさんっ…?!」
 信じられない、何という失態だろう、自分は相当パニックになっていたらしい。てっきりカカシの袖を掴んだとばかり思っていたのに、背後に突っ立っていたのは、あの気のいいおじさん連中の一人ではないか。
(じゃ、じゃあ俺って、あの場にカカシを残して来ちゃったってことー?!)
「あわあわ、それ最悪だって、……カカシ…!」
 まるで言うことを聞かない足腰に鞭打って、壁を掴んで何とかして立ち上がろうとする。自分の運動不足をこんなに呪ったことはない。だがまるで足腰に力が入らずに、ふわーとそのまま尻餅をつく。あぁだめだ、どうしよう、腰が抜けてる。
(帰ったら真面目に運動します! ちゃんと朝食も食べて牛乳も飲みます! カカシの修行も少しだったら受けますから、だから今だけ何とか走らせて下さい!)
 両手を合わせて擦り合わせながら、何かの神様にお祈りする。
「アンタ、何やってんの?」
「も、戻るに決まってるじゃないですかっ! 友達が、警察に事情聞かれる前にっ!………って、えぇっ?!」
 今おじさんが立っていたその場所に、はたけカカシがいた。



「――じゃあ…、俺が引っ張って来たのは、おじさんに変化したカカシ本体だったってこと?」
 雑居ビルに凭れて座り込んだ俺は、差し出された財布を受け取りながら、側で立ったままのカカシを見上げた。
「そ」
「じゃあ向こうには?」
「スリ集団と、影分身のオレ」
「暴力反対!」
「してないって何も〜。あんなただの脅し、真に受けないでよね。大体アンタ分かってる? 威嚇って言うのは、相手が怯まなきゃ意味ないのよ? 上手くいきゃ戦わなくて済むんだから、そりゃこっちだって迫真の演技するでしょうよ普通」
「ホント? ホントに何もしてないんだね?」
「あぁしてない。オレってそんなに信用ないのかねー」
 とりあえず通行人によって警察が呼ばれたから、連中は身動きできないよう、まとめて縛り上げてきたという。
「まだ懐には幾つも財布が入ってたからね。あれは事情訊かれて身体検査されたら一発だね」
 しかもその影分身のカカシは、衆人の目を誤魔化すために『明後日の方向に歩かせてから消してる』らしい。
「お前はどこぞの知らないオヤジと走ってっただけなんだから、オレとは最初から無関係だしね。だからアンタの名前だって一度も呼ばなかったでしょ。……あぁでもその髪、念のために下ろしておくか」
「えっ…? いたた! なにす…」
 髪を纏めていたゴムをいきなり引っ張られ、髪がばらけて落ちる。
「ハイ、変化完了。しかしアンタってさ、髪下ろすとホント雰囲気変わるよね」
 そっちの方がよっぽど犯罪かもよ、と言ってカカシは笑った。
 俺は上忍が初めて見せてくれたその笑顔が堪らなく嬉しくて、自分の何が犯罪なのかもよく分からないまま、一緒に笑った。





「さ、もう行くぞ」
 手を差し伸べられて、うんと二つ返事でその手を掴む。そのまま勢いよく立ち上がった。――つもりだったが、スカッと勢いよく足腰が砕けたかと重うと、再び地べたにへたりこんだ。
「あーあー、一体どういう暮らししてたらそんな足腰になるのかねぇ?」
「アハハ〜、まぁー……あんな暮らし…?」
 言うとカカシはまったくと短い溜息をついて、後ろに付けてきていた丸いポーチから、何やら小さな黒い粒を取り出した。それを器用に三つに割る。
「ほら、これ」
「? 何?」
「兵糧丸」
「え? うそ! あの凄い力の出る、あれ?!」
「あぁ。初めてなら、まずはこの一番小さな欠片で十分だろう。噛んで呑み込め」
「うんうんうんっ! ……――あ、でもやっぱ止めとく」
 “頂戴の格好”で勢いよく伸ばしていた右手を、慌てて引っ込めると、カカシが苦笑いながら見下ろしている。
「心配するな、食べても痛みはない」
「えぇーー、ホントかなぁ〜? 苦くも、辛くもない?」
「あぁ、大丈夫だ。あまり疑い深いと損をするぞ」
「よく言うよ、そんな風にしたのはカカシだろ? 俺、今までティッシュペーパーだってチラシだって、くれるって言われた物を断った試しなんて一度もないんだから。忍者は裏の裏を読め!」
「ふっ、裏の裏は表だ。ごちゃごちゃ言わずに食っとけ」
「なんだよそれ〜!」

 でも裏の裏は、本当に表だった。
 恐る恐る舌に乗せ、警戒しつつもエイヤッと飲み下したところ、幾らもしないうちに全身に笑ってしまうほど劇的な変化が現れだしたのだ。
「…え? え? あれ? あれれ? ウソー?!」
 みるみる身体の芯に力が入り始め、だらしなく抜けていた足腰がしゃんとしだす。ガチガチに強張って今にも攣りそうだった足の疲労感が嘘のように消えていき、このまま家まで走って帰れそうな程の、未だかつて感じたことのない凄い力が、身体の奥からふつふつと湧き上がってくるのを感じると、俺は「雷切ッ!」などと叫びながら鼻息も荒く立ち上がった。
「出るか、馬鹿者」
 本人に一蹴されるが、でもこの力だけは気のせいでも何でもない。
「行こう! 火影岩の頂上!」
 俺はカカシの手を取った。
 地上200メートルの位置に展望台のある、都庁の第一庁舎が、もう目の前にそびえていた。





「これこれ、これに乗るんだって!」
 ロビーの一角にある、数人の列が出来ている扉の前に二人で並ぶ。
「――乗る?」
 カカシが小さく呟いた時、丁度タイミングよく展望台直通の超高速エレベーターの扉が開いた。その場にいた全員がぞろぞろと乗り込むと、静かに扉が閉まっていく。やがて数十秒後に扉が開いたら、そこはもう地上200メートルの大パノラマの世界だ。
(カカシ、きっと喜ぶだろうなぁ。展望台からなら富士山だって楽勝だもんな。目も記憶力も方向感覚も抜群にいいから、米粒みたいな俺ん家だってすぐ見つけちゃうんだろうなー)
 驚き、喜ぶ様子が目に浮かぶなと、自然と口元が綻む。自分が高所が苦手ということですら、いつの間にか『それって誰のこと?』状態だ。
 ドアが閉まりきると、一拍置いて狭い空間に沈黙が訪れた。直後ふわっとくる、あの独特の浮遊感を腹に感じる。正直、こればかりは何度味わっても好きになれない。便利だからついつい使ってしまうのだけれど…。
 とその時、背後でドタッという不穏な音がして、俺は何気なく振り返った。
(!?)
 なんとそこには、銀髪男が箱の隅に背中を張り付けた情けない格好で、ガチンと固まっていた。
 手足はおろか、全身を使ってぎりぎりと壁に突っ張り、まるでこの上昇感に必死で抵抗しようとしているかのようだ。左目は辛うじて閉じられているが、見開かれている灰青色の右の目元には、明らかな困惑と焦りと、心なしか冷や汗のようなものまでが浮かんでいる。
「かッ…!?」
 ここに来る間も否応なく目立ちまくっていたのに、その彼から放たれる異様なリアクションと緊張感は、狭い密室内にフォロー不可能の息苦しさをもたらしていく。
「いやあのっ、この人ゼンッゼン大丈夫ですからっ! ホント何でもないんです! ちょっとなんとゆーか、ちっ…地方出身でこういうのに不慣れなものでして…。あはっ、あハはハは〜!」
 この釈明が、吉凶どちらに出てるかなんて分からない。
 ただひたすら押し黙って凍り付いていた、周囲の人達の胸の内に聞いてくれって感じ。


 チーンという、この時ばかりは思わず仏様に拝みたくなるような音がして、するするとエレベーターの扉が開く。と、どう見ても我先にという感じで慌てて出て行った人達を見送り、俺達は最後に展望階へと降り立った。
「カカシってさ、電車はオッケーでもエレベーターはダメだったんだ?」
 からかい気味に小声で訊ねる。
「す…少し、驚いただけだ」
 上忍は、整いまくった顔をムッとさせて小さく咳払いをした。でもそんな不機嫌そうな顔でさえも、普通にカッコイイんだから憎たらしい。何だか、からかい損て気がする。
「…しかし『地方出身者』か…。確かに異次元出身者などとは言えないからな。お前もたまには上手いことを言う」
 上忍が真面目な顔をして頷いている。
(へ? なに? そこってカカシ的には感心するとこなんだ?)
 仄かな可笑しさを堪えつつ、俺は窓際へと向かった。


 国会議事堂や東京タワー、オペラシティにパークタワー。
 林立する超高層ビル群と、視界の及ぶ限りに幾重とも知れず広がり続ける、幾千万のミニチュアの建造物。
 世界に名だたる一千万都市を眼下に一望して、流石のカカシも驚いたらしい。分厚い強化ガラスの前で、暫し言葉を無くして立ち尽くしている。俺は何やら得意気だった。
「あぁ、あれだあれ! あれがね、フジヤマ! 富士山っていう、この国で一番高い山なんだ! 結構きれいだろ? あ、あっちの白くて丸っこいのはね、東京ドーム。中で野球の試合とかをするんだ!」
 カカシはどこからどう見ても日本人には見えないから、このての説明を周囲に聞かれたとしても全然平気だ。
 恐ろしくラフなトレーナー姿の上忍は、片手にイチャパラならぬポケット地図を持ち、時折現物と付き合わせながら、俺のベタな説明にも真剣な面持ちで耳を傾けている。
(そうだな、たまにはいいよな、高いっていうのも!)
 高所恐怖症だった事などどこへやら。俺は、文字通り天にも昇るような気分ではしゃぎまくった。


 やがて下りエレベータの扉が静かに開くと、二人は元居た地上の世界へと優雅に舞い下りた。
「この世界の者達も、そのうち異次元間移動術を開発する日が来るかもね」
 一瞬で地上200メートルの世界を移動する、世界に誇る日本のエレベーター技術を、木ノ葉一の業師はそう評価して締めくくった。




 新宿駅の南口から出来た俺達は、ひょっとしたらまだその辺に警察官が居るかも知れないと考えて、来た道を戻らずにぐるりと大回りをして西口方面へと向かった。
 兵糧丸のお陰で足取りはとても軽い。目的なんて無くたって、どこまででも歩いて行けそうな感じだ。俺は鼻歌を口ずさみながら、普段なら見ただけでげっそりするような人混みをスイスイと肩でかわし、西口の暗くて怪しげなガード下を意気揚々とくぐって行く。斜め後ろからは、ポケットに手を突っ込んだカカシが猫背気味についてきている。この調子なら、もうはぐれる事もないだろう。
(流石に腹減ったなー)
 どこかの店で、一緒に遅い昼ご飯を食べたかった。夕べが遅すぎたから、朝も食べないで出てきているのだ。
(外食初めてだけど、カカシは何が好きなんだろう?)
 そう思った時だった。

「あ! ねぇ、君? ちょっといい?」
「はい?」
 斜め後ろから明るく声を掛けられて、何の気無しに振り返った。
 と、そこには高級そうなブランドスーツを着た、愛想の良さそうな男の人がカカシを見ている。あれれ、どうやら呼び止められたのは俺じゃなかったらしい。うわ、ちょっと恥ずかしいかも。
「なに」
 カカシは胡散臭そうな半目でもって、斜めに男を見ている。
「ちょっとだけ、時間いいかな? 自分はこういう者なんだけど」
 派手な柄の名刺を差し出したから、カカシの後ろから覗いてみたけど、勿論知らない名前だ。
「あ、君って日本語分かるんだ。なら話は早い。あのさ、自分はホストクラブのスカウトなんだけど、この先の店で働いてみる気、ない?」
「ハァ?」
 ほすと、くらぶぅー?
(…ってあの、女の人が夜遊びに来る、あれのこと? 一緒にお酒呑んだり話したりする?!)
 でも正直なところ、一ミクロンの縁もなければ知識もないから、まるでイメージが沸かない。
 俺の裏返った声に、ブランド君がフッと苦笑っている。
「君くらいのイケメンだったらさ、特別会話に自信なくたってすぐに稼げるよ、保証する。日払いも出来るし、週三日の、一日三時間からでもいい。ウチは上下関係も厳しくないし、ノルマもよそほどはキツくないからさ、どう?」
「――――」
 どうと言われたって、カカシが答えられるわけない。俺は慌てて間に割って入った。
「いやあのっ、この人ゼンゼン優しくないですから! 間違ってもそんな歯の浮くような台詞言えませんし!」
 カカシが黙ったまま何も答えないため、その気まずい間を埋めるようにして、思いつくまま喋った。仕事柄か性格か、俺は無言とか沈黙とかいう状態に弱いのだ。
「大丈夫。そのルックスなら、無理に優しくする必要もないよ。なーんか独特の雰囲気あるからね。いきなりウチのトップ取れるって感じ? 大体ちょっと意地悪でつれないくらいの方が好きな女の子って最近多いからね。てか、ホストは一旦惹き付けたら、後は焼き餅妬かせてナンボだから」
「へえ〜、そうなんだ?」
「納得するな、馬鹿」
 即座に上忍にぼそりと突っ込まれる。
「あ、声もイイじゃない。もうそれだけでも固定客付いちゃうよ。あ、ウチね、完全に実力世界だから。新入りでも人気さえあれば発言力もボーナスも破格だからさ。君だったら少し会話のコツさえ掴めば、すぐに五はいくと思うな」
「ご…って…?」
「そう、五百万」
「ごひゃく…まん〜?!」
「あ、もちろんそれ、月収ね」
「げッ…?!」
 俺は続く言葉を失った。500万と言えば、前の会社の俺の年収より多いではないか。それを嘘か誠か、彼ならたったの1月で稼ぐことが可能だと言う。一体どういう世界がこの通りの向こう…歌舞伎町には広がっているというのだろう? 俺はカカシが無理矢理押し付けられるようにして渡された名刺を、もう一度穴の空くほど見つめた。
「もしもビザとか、借金とか女とか、色々面倒なことがあっても、安心して働けるように口きいてあげるから、ね? ちょっと考えてみてよ。返事だって今すぐじゃなくてもいいからさ。で、気が向いたらいつでもココに電話して?」
 ブランド君は、俯き加減のカカシの顔を覗き込むようにして、どんどん畳みかけてくる。でも当のカカシは相変わらずむっつりと押し黙ったままだ。
「あ、あの〜、ちょっと質問、いいですか?」
 俺はまた沈黙に耐えきれず、遠慮気味に小さく手を上げた。
「ん? なんだい」
「いっ、いえあの…もしも、もしもの仮定の話ですよ? カンペキ仮の話として伺いますけど、その…それがもし俺…だったとしたら、そのー…、月にどれくらい稼げるのかなー、とか?」
「はァ? 君がぁ?」
 ブランド君の肩が、あからさまにカクンと落ちたのが分かった。瞬間、仮定でも聞いてはいけないこと聞いてしまったのだと分かる。
「ハハハッ、んーまぁそーだねぇ〜。嫌味のない愛嬌があれば、見てくれは二の次に出来なくもないよ。ママとかが気に入ってくれれば、それなりに可愛がって貰えるからね。あとは会話とか要領かな? とにかく努力と成り上がろうっていう根性次第って感じ?」
「ママ…?」
「そう。君は多分、年上受けするタイプだと思うんだ。オバサンとかね。あと、もし興味あるなら、この先の二丁目に知り合いの店があるから紹介するけど? そっちなら歌とかダンスが好きなら楽しめると思…」
「アハッ、あははー、――そっ…そうですか。いや、もういいです。もう十分分かりましたから…!」
 顔の前でぶんぶんと手を振って、話の続きを遮った。ブランド君の言った「ママ」とか「オバサン」というキーワードに、少なからず心当たりがあるような気がしたのだ。それは言うまでもなく、今の仕事先でして。
 教室には色んな年格好の生徒さんがいる訳だけど、最近同僚の薬師さんに「海野君は特に、年上のお母さん系にウケがいいよねー」とよく言われているのだ。勿論意識してそうした事は一度もないのだけれど、こうして二人に同じことを言われたとなると、そうなのかもしれないと思い始める。
 何となく、ショックなんだけど?

「あれっ? それよりそっちの君、もしかしてその目の傷って、何かワケアリ? まさかどっかの組の人じゃないよね?」
 突然ブランド君の表情が怪訝そうに曇った。やばい、近すぎて見つかったらしい。
 でもそのお陰で逃げ出すチャンス到来だ!
「そっ、そうなんです! 実はこの人、すっごく怖い人なんですよ! 正真正銘、ヤの付くお仕事の人なんで、これで失礼しますっ!」
 ぺこっとお辞儀をすると、後はもうカカシの腕を取ってひたすら人混みの中を小走りに走り始めた。背後から「それでもいいよ! 考えといて!」という声が掛かった気もするが、定かではない。

 暫くして行く手を信号に遮られたことで、俺達はようやく立ち止まった。だがその際も、周囲の人達が皆チラチラとカカシを見ていることに気付く。自分はもうすっかり彼のとび抜けて目立つ容姿にも目が慣れてしまっているけれど、他の人は違うのだという事が、ここにきてようやく本当の意味で実感できていた。
「どっか、人のいない所に行こうか」
 俺達は地上の喧噪から逃げるようにして、再びエレベーターにとび乗った。





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